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追跡 独ソ戦 第六編 「赤き螽(イナゴ)達の逆襲」

 独ソ戦は、ナチスドイツによるロシア国内への一方的な侵攻で幕を開ける。開戦からの数か月、ナチス軍は破竹の快進撃を続け、キエフは陥落し、レニングラードは包囲され、モスクワすら一時は進攻の危機にさらされた。しかし、ナポレオン戦争の時同様、ロシア人たちは、膨大な数の人命を失いながらも降参せず、後方に退却しながら時間を稼ぎ、冬の寒さと忍耐を武器として抵抗した。
 

 開戦2年目の冬に、この戦争はターニングポイントを迎える。長期に渡る戦闘を経て次第に疲弊の色を強めるナチスに対し、ロシア人たちは、シベリアまで続く大地の奥から、どれだけ踏み潰されても尽きぬほどの数の兵士と戦車を繰り出して粘り、次第に優勢に立つようになっていった
 

 1942年末から1943年の始めまでの厳冬期、ロシア南部のヴォルガ河畔の街、スターリングラードでは、半年に及ぶ市街戦に力尽きたナチス軍が遂に退却し、その途上の平原でソ連軍に包囲殲滅された。北のレニングラードで、ナチス軍による市内封鎖に、ソ連赤軍が最初の突破口を開けたのもこの時期だった。以後、ナチス軍は、押し戻される潮のように西方への後退を続け、代わりに、ロシア赤軍が、ナチスの退却した平原を、西に向かって怒涛の如く進軍していくことになる。
 

 大地を覆いつくし、ベルリンを目指して進軍していくソ連赤軍の戦車と兵士群は、自分に、野火のようなイナゴの群れを連想させる。彼らは、祖国を蹂躙された怒りに燃えて真っ赤な色をしている。イナゴは、漢字で“螽”とも書く。冬という文字には、たくさん蓄えるという意味があるらしい。地中の巣にたくさんの卵を蓄えて冬を越し、やがて一斉に孵化して大地を覆い尽くす。独ソ戦後期のソ連赤軍がまさにそうであった。自分は、この種のロシアの“野生”に、戦慄を禁じ得ない。
 

 ナチスドイツの最大侵攻ラインは、北はレニングラード近郊のラドガ湖から、南は黒海の東北部にあたるアゾフ海(クリミア半島の付け根)を結ぶ線だった。現在の国名でいえば、西から、バルト三国、ベラルーシ、ウクライナと、ロシア本国の西部数百キロがナチス軍の勢力下にあったことになる。
 

 一度はどん底まで行ったソ連赤軍による最初の大反撃が、先に述べたスターリングラードでの戦いであったが、以後も、ソ連側による防衛線の押し戻しは、黒海に近いソ連南部の平原で先行することになった。
 

 ナチス軍は、スターリングラードで大敗北を喫したものの、軍事的には未だソ連に対する優位性を失っておらず、世界最強を誇る機甲師団をもってヴォルガ河西方の侵攻ラインに踏みとどまり、これを堅持せんとした。徐々に力を付けつつあったソ連軍は、大量の兵士と戦車を投入して、自らの大地からナチス軍を掃討する作戦に打って出ようとしていた。
 

 そのような経緯にあった1943年夏、独ソ双方3000両、計6000両の戦車群が、ウクライナ国境に近いクルスクの平原で激突した。史上最大の戦車戦、クルスク会戦である。

 *  *  *  *  *

 当時、ナチス側は、西部戦線において、英米連合がドーバー海峡を越えてフランスを奪還に来る可能性に神経を尖らせていた。そちらに戦力を割くためにも、東部戦線でソ連軍に大きな打撃を与え、自軍有利の状態で戦況を安定させておくことが望まれた。一方で、もし東部戦線でのその攻撃にしくじれば、ナチスはなけなしの戦力を消耗することになり、東西両方面で苦境に立たされるリスクも孕んでいた。
 

 戦闘の場所は初めから予想されていた。広大な南部ロシアの平原に南北一本の線があり、その東にソ連、西にナチスの両軍が対峙している。そのソ連制圧地域の一部に、ナチス側へ逆コの字型に一部突出している箇所があった。ナチス軍が攻勢をかけてくるとすれば、南北幅約230kmのこの突出部の付け根のあたりを上下両方から攻撃し、そこに展開するソ連赤軍を包囲殲滅しようとするであろうことは、ほぼ自明であった。広大なロシアの大地ではほんの一部にすぎないこの突出部も、西欧で言えばイギリスの国土の半分にあたる広さである。
 

 ナチスの強みはその機甲師団にある。クルスク会戦においてヒトラーは、その優位性をさらに絶対的なものとすべく、新型戦車を投入することに強くこだわった。この対決で戦線に投入されたのは、この少し前に戦線に投入された重戦車ティーガー(VI号戦車)に加え、パンター(V号戦車)、そして重駆逐戦車フェルディナンド(設計者フェルディナンド・ポルシェ)の新型戦車であった。これらの戦車群は、攻撃力と防御力に置いて、当時のどの国の戦車よりも抜きんでて強力だった。敵の戦車の射程圏よりも遠くから浴びせる砲弾で相手戦車の装甲を貫くことが出来た。
 

 対するソ連軍は、まず、防衛陣地を強化することでこれに対抗した。ヒトラーは新型戦車の戦場投入にこだわり続け、早期開戦を望む現場の声に耳を貸さなかった。流れていく季節こそ、ソ連の最大の戦略的資産であったかもしれない。ナチスが攻撃に踏みきれないでいる間に、赤軍兵士たちは、クルスクの平原を二次元の大要塞に作り替えた。数百キロに及ぶ対戦車壕が3本も並行して彫られ、その線上の等間隔に、幾つもの対戦車砲陣地が築かれた。ナチスの戦車群が攻め込んでくれば、轟音とともに十字砲火を浴びせかけるのだ。壕と陣地の前面には無数の地雷も蒔かれた。
 

 その長大な陣地構築のためには、連日地面に這いつくばり、膨大な量の土砂を掻き出す必要があったが、赤軍兵士たちは、実に忍耐強く、かつ迅速にそれをやってのけた。彼らが平原に地雷を埋め込んでいくスピードは信じがたいものであったという。大地への密着度という意味では、赤軍兵士は、彼らの敵である崇高なアーリア人兵士たちを圧倒的に凌駕していた。
 

 ヒトラーが決めた攻撃開始日は7月4日。作戦名は、ツィタデレ(城塞)である。ティーガー、パンター、フェルディナンドの重戦車軍が最前線に並び、その後ろには、それまでの主力であったIII型、IV型戦車も大量に配備された。この時の機甲師団としてのナチス軍の戦力は、この地で対峙しているソ連赤軍、未だ欧州への上陸を果たしていない米軍を加えても、比べるべくもない強力なものであったろう。
 

 ナチスは、この強力な機甲師団の戦闘能力をさらに高めるために、戦車群に“パンツァーカイル”という陣形を組ませて、ソ連の防御陣地に突撃させる攻撃法を編み出した。楔形に配列した戦車群を縦列に複数重ね、最前列の重戦車ティーガーと、第2列のパンターに敵の防衛線を突破させ、後方の中戦車群を敵陣になだれ込ませる戦法である。
 

 極秘であったはずの攻撃開始日の未明、ナチスの攻撃開始時間は、ぎりぎりの段階でソ連赤軍に察知されてしまった。前線を偵察してたナチス兵を赤軍が捕獲し、その情報を吐かせたのである。
 

 この情報をもとに、ソ連赤軍は、正にこれから射撃を開始せんとするナチス陣営に先制砲撃の雨を浴びせかけた。予期せぬ展開に一度は混乱したナチス軍も、パンツァーカイル進軍の露払いとして用意していた大砲撃をもって、ソ連赤軍の先制攻撃を迎え撃った。まだ夜が明けぬその時間に上空を飛んでいた偵察機から見た地上は、大地の向こうまで広がる左右の陣地から発射された無数の砲火が飛び交う、地獄絵のような状態にあったという。
 

 1時間にわたる砲撃が終了した。遂にナチス最新鋭の戦車群の進軍開始である。虐コの字型のソ連突出部の北方からはナチス中央軍集団、南方からは南方軍集団が進撃した。
 

 ティーガー、パンターから放たれた無数の砲弾が、ソ連赤軍の陣地めがけて次々飛んでいく。対するソ連赤軍の主力戦車はT-43。優秀な戦車であったが、1対1の性能では、T-34はティーガーの敵ではなかった。次々と、吹き飛ばされていった。
 

 怒涛の前進を続けるパンツアーカイル陣形のナチス戦車群の前に次々に撃破されていくT-34戦車群。南部戦線では、第一防衛線は突破され、第二防衛線の保持も危うくなっていった。しかし、ナチス機甲師団がソ連陣地の奥深くへ突き進むに従って、情勢は次第に別の色合いを深めていった。
 

 踏み潰しても踏み潰しても、果てしない数のT-34が、硝煙の向こうから繰り出してくるのである。また、対戦車豪の中に潜み、パンツァーカイルの進軍をやり過ごした赤軍歩兵も、手りゅう弾や火炎瓶を持ってドイツの最新鋭戦車にとりつき、肉弾戦をもって、執拗な攻撃を仕掛けてきた。ナチス軍の猛烈な砲撃で赤軍砲兵陣地の相当数が吹き飛ばされたが、生き残った陣地の兵士たちは、自分たちの横を通過していくナチス戦車群に十字砲火を浴びせかけた。地雷を踏んで動けなくなるティーガーも数多くあった。
 

 最も厄介なのはT-34である。ソ連軍は、いったい何両のT-34を有していたのか。大戦中のティーガーの生産台数は、I、II合わせても2000両に達していない。パンターは6000両。これに対しT-34は実に5万8000両である。
 

 開戦当初、T-34はソ連の各地で造られていたが、ナチス軍の侵攻に伴い、ハリコフやレニングラードのT-34工場は、ウラル山脈の東に位置するチェリャビンスク(2013年に隕石が落下したあのチェリャビンスクである)に移設された。以後、終戦に至るまでのチェリャビンスクは、戦車生産コンビナート”タンコグラード(Танкоград)”として、膨大な数のT-34を生産し続けた。成人男子は全て戦場に出払っている。タンコグラードでの製造を支えたのは、半数が女性で、後は少年や老人、そして身体障碍者であった。ひと月の生産能力は、実に1200両である。かつてレーニンは、「量はそれ自体が質である」と言ったという。
 

 何十台ものT-34を撃破し、塹壕の赤軍兵士たちが守る防衛線を踏み潰して前進を続けるパンツァーカイル陣形のナチス戦車群。しかし、ティーガーも、パンターも、ソ連赤軍の数による攻撃の前に、一つ、また一つと、黒煙を吐く鉄の躯(むくろ)となって、動かなくなっていった。生き残ったナチス重戦車群の砲手たちも、その前方のみならず、側面も、後方も、全てイナゴたちの巣である大地の中に自分たちがいることを知り、心底戦慄したに違いない。
 

 それでもなお、ナチス機甲師団は進軍することをやめない。プロホロフカ近辺では、独ソ両軍による壮絶な死闘が繰り広げられた。決死の進軍を続けるナチス軍は、赤軍の第二防衛線も突破し、遂には第三防衛線も破らんとしたが、既に戦力は限界に達しつつあった。この状況で、ソ連赤軍は、満を持して無傷の予備軍を戦線に投入する。ナチスの進軍はここで尽きた。さらにソ連赤軍は、ナチス軍が進軍してきたさらに後ろからの追撃に出た。このままでは進撃していたはずのナチス軍が、逆に包囲殲滅の危機にさらされる。ナチスの機甲師団は遂に撤退を余儀なくされた。
 

 ソ連赤軍が、ドイツが誇る機甲師団を打ち破り、史上最大の大戦車戦を制したのである。撤退するナチス軍は、クルスクの西方に位置する要衝、ハリコフだけは堅持せんとしたが、遂にはそれも捨てて西へと退却した。
 

 ナチス軍の死傷者数は50万、ソ連赤軍は60万を超えていた。戦闘に勝ったにかかわらず、ソ連側の死傷者数が敵より多いのは、もはや伝統といっても良いかもしれない。その伝統は、今日でも恐らくまだ生きている。
 

 その戦闘は、自分に、原野に迷い込んだ狼に、螽たちがキシキシと歯を鳴らしながら取りついていく光景を連想させる。仲間の螽が踏みつぶされている間に、他の螽たちが狼の足に這い上がり、やがて全身に取りついていく。肉食の螽達にたかられた狼は、やがて力尽きてその地に倒れ、白い骨の骸(むくろ)となって、乾いた風にさらされる。
 

 この、クルスク会戦をもって、独ソ戦の雌雄はほぼ決したとみていいかもしれない。2年前の夏、黒い甲虫の群れのようなナチス機甲師団が東へと進軍したのと同じ平原で、赤い螽たちの西への大行進が始まろうとしていた。1943年のこの平原の夏は、そのようにして過ぎて行ったのである。

 *  *  *  *  *

 あの広大なユーラシアの大地の、果たしてどの地点までがロシア人のものなのだろうか。
 

 クルスク会戦の後のナチス軍は、現在のウクライナに当たる地域の平原を、ドニエプル河という大河を超えて西へ西へと押し戻されて行くのだが、この稿において、その地での戦闘について語るべきことはあまりない。
 

 独ソ戦におけるウクライナ。その部分に対する自分の興味は、戦闘にではなく、モスクワのソ連政府に反感を持つウクライナ人たちが、一旦はナチスの侵攻を歓迎し、その積極的な支援までしたにもかかわらず、やがてはナチスの政治にも失望し、再びのソ連の侵攻に抗うべくもなく、やがてその版図の一部に組み戻されていったという経緯にある。当時のウクライナ人がソ連軍の侵攻を嫌ったことは史実だが、どうやらその種の感情は、今日まで続いているようである。
 

 世界史において、東スラブ人の土地で最初に出現する国家はキエフ公国である。言うまでもなく、キエフは、現在のウクライナの首都だ。そのしばらく後に出現するのがモスクワ大公国。それがやがてロシア帝国となり、ソ連となって、現在のロシアへと繋がっていく。自分は、東スラブ世界の中心が、どこかの時点でキエフからモスクワに変わったにせよ、それは同一の歴史のストーリーの中での出来事であり(例えば日本の政治の中心が京都から江戸に変わったように)、ロシア人とウクライナ人は、住んでいるエリアこそ違えど、同じ歴史を有する兄弟民族なのだろうと思っていた。そのことと、テレビで報道される、オレンジ革命からクリミア問題までに至るウクライナとロシアの対立のニュースとの相関性が、自分にはどうも上手く理解できなかった。
 

 当時の歴史を紐解き、自分なりに理解を試みた両国の関係は以下の通りである。話しは、ヴァイキングから始まる。
 

 2014年2月に開催されたソチ・オリンピック。その開会式の出し物で、ロシアの歴史についての一大ページェントがあった。冒頭は、ヴァイキングのシーン。一枚帆で喫水が浅く、舳(へさき)が高く上がったあの独特のヴァイキング船がロシアの平原に流れる川を遡り、そこから降りてきた太い腕の男たちが森の木に斧を打ち込み、木くずが飛び散る。そんなシーンだった。
 

 「ヴァリャーグからギリシャへの道」という言葉がある。ヴァリャーグとは、ヴァイキングのことである。ローマ帝国が崩壊し、暗黒の時代だったヨーロッパで活躍したヴァイキングは各方面に勢力を伸ばし、その東部においては、バルト海からロシアの川を遡り、陸の上はその船を引きずって移動させ、ドニエプル川を下り、黒海を通って、東ローマ帝国のコンスタンティノープルまで至る交易路を築いた。
 

 その交易路に発展したのが現在のウクライナの首都キエフであり、ロシアのサンクトペテルブルグの南方辺りにある古都ノブゴロドであった。土地のスラブ人達は、自分たちの争い事のまとめ役となる首長として、ヴァイキングの有能者を招いた。日本で言えば、平安時代の話しである。現在のロシアとウクライナの原型は、そのような形で生まれた。ほぼ同質のものと見て良いだろう。
 

 1223年、彼らの地にモンゴル軍が侵攻してくる。我が国の元寇の50年ほど前の話しである。
 

 スラブ諸都市へのモンゴル軍の侵攻は凄惨を極めた。建物は破壊され、成人男子のみならず、女、子供、聖職者を問わず、抵抗するものは容赦なく殺戮された。13~15世紀の中世は、西洋史、東洋史の双方で、文化発展の極めて重要な時期であったと司馬遼太郎氏は言う。西洋では、ルネッサンスが開花し、神が全てであった世界に、“人間”という主人公が登場した。我が国では、自ら耕した土地を守らんとする人々である武士という実務者が政権を握り、彼らのもとに育まれた鎌倉・室町文化が、後の日本文化のバックボーンとなった。スラブ諸族においてのこの時期は、漸く芽生えつつあった文化を、モンゴル帝国の蹂躙によって根こそぎにされてしまうという悲惨なものであった。
 

 キエフも、壊滅的な打撃を受け、再起不能となった。
 

 モンゴル帝国の統治は、相手を服従させる段階の残忍さに比べれば、遥かに寛容なものであったとの説もあるが、いずれにせよ、彼らは、200年以上に渡り、徴税を中心としてスラブ諸族の地を支配した。どこかに反乱の兆しがあれば、再び容赦ない殺戮をもってこれを潰す。ただ、平時は、騎馬民族である彼らが農耕民を直接支配することはあまりなく、土地の有力者を専制的支配の執行者として任命し、彼らを通じて税を集めた。
 

 モスクワは、その執行者として台頭した勢力である。周りのスラブ諸族を徐々に従え、徴税する領域を拡大する形でその勢力を伸ばし、キエフが持っていた宗教的権威も自分の領域内に取り込んだ。アジア騎馬民族の専制政治の下請け執行者であったモスクワ勢力は、委託者の遺伝子を濃厚に受け継ぎつつ成長し、遂には、権力の委譲元であった汗国を撃破し、“ロシア帝国”となってユーラシアの大半を支配することになった。その後のロシア帝国は、ピョートル大帝の欧州化政策により、ヨーロッパ風の優雅なコートを羽織ることになったが、それを脱いだ皮膚の中には、彼らの支配者であったモンゴルから受け継いだアジア的専制性の血が脈々と流れている。
 

 対するキエフ・ウクライナは、モンゴルの殺戮後、かつての栄華を取り戻すことは遂になく、その後台頭してきたモスクワ大公国の支配下に組み込まれるまでの間、リトアニアやポーランドの勢力圏内にあった。このためか、ウクライナの街並みや人々の外観には、ロシアとの対比において、ヨーロッパ的な要素がより多く感じられる。
 

 かくの如く、ロシアとウクライナは、血筋は同じだが、育ちはかなり違う兄弟のような関係にある。乱暴者の弟のことを、やや線の細い兄は、あまり快く思っていない。
 

 さらに、ソヴィエト政権誕生後に発生した“ホロドモール”が、ウクライナ人の反ソ、反ロシア感情を決定的なものにした。時はスターリンの時代、果てしなき猜疑心に駆られ、数百万もの同胞を粛正した彼は、農業政策においても、異常なまでのイデオロギー至上主義を押し付け、ソ連全土で危機的な食糧不足を発生せしめた。
 

 特に、元々が豊かな穀倉地帯であったウクライナにおいては、収穫が激減したにも関わらず、ソ連政府が外貨獲得のためにそれまでと同等量の農作物を徴発したため、他のソ連地域よりさらに深刻な飢餓が発生した。その死者数は、数百万から千数百万ともいわれ、これをソ連政府によるウクライナ人のジェノサイド(民族大量虐殺)とする見方もある。この状況に不満を述べるもの、逃れようとする者がいれば、ソ連中央政府は容赦なく彼らを摘発し、射殺するか、収容所に送るかした。密告も奨励され、ウクライナ人の民心は極限まですさみ、ソ連中央政府に対する憎悪も頂点に達した。
 

 以上は全て、ナチスのウクライナ侵攻前の話しであり、この稿の本来のテーマとは直接的な関係はない。ただ、自分としては、ウクライナ・ロシア関係の“何故”について、触れないわけにはいかなかった。自分は、一連の稿を書き進めながら、ソ連赤軍の後を追って、ベルリンを目指そうとしている。その進軍の過程でウクライナを通過するにあたり、このテーマの根っこを少しでも掘らずにはおれなかったのである。
 

 冒頭の繰り返しになるが、ナチスが侵攻してきたとき、ウクライナ人は、彼らをモスクワ政権からの解放者として歓迎した。しかし、ナチスもまた、自分たちの土地を植民地とするつもりであることを知り失望する中、モスクワ政権への再びの隷属を強いられていったのである。
 

 ウクライナは誰のものか。それがウクライナ人のものであるとの認識は、恐らく大多数のロシア人にも共有されているだろう。ただ、我々は我々であり、ロシア人とは出来るだけかかわりたくないと考えるウクライナ人と、同地はモスクワを中心とする権力の引力圏の中にあるべきであるとの歴史的認識を持つロシア人の間には、大きな見解の齟齬があると思われる。
 

 外交という二国間の今この瞬間の横軸の関係に、歴史という縦に深く伸びる要素がしばしば大きな影響を及ぼす。ウクライナは、そういう宿命を背負っている地域の一つなのかもしれない。

 *  *  *  *  *

 見たくない現実に目を向けざるを得なくなるという点において、“危機”は、人間の最大の指導者といえるかもしれない。今日の敗者は、必ずしも明日の敗者ではない。もっとも、その者に、絶対に生き延びたいという強い意志があって初めて、そこに活路が見いだされるわけであるが。
 

 敗者に復活のチャンスを与える神は、勝者には、栄光と同時に過酷な運命を課す。甘美なる勝利の高揚は、勝者を現実から遠ざけ、勝者であるという立場からも遠ざけていく。
 

 1944年の夏に、ベラルーシの森林地帯で展開された独ソの激突、“バグラチオン作戦”は、正に、その真理を映す鏡のような戦いだった。
 

 “ベラ”は白を意味し、かつて日本では、ソ連時代のこの国を、白ロシアと呼んでいた。意外にもこの“白”は、東洋の五行思想から来ており、“西”を象徴するものだとの説がある。ロシアは北の赤ルーシ、ウクライナは南の黒ルーシと称されたが、白のみが、今日国名として残った。その名の通りベラルーシは、ロシアの西に位置し、南のウクライナ、北のバルト三国、西のポーランドと国境を接する内陸国である。
 

 1943年夏から1944年春にかけて、ナチス北方軍集団はレニングラードから撤退し、南方軍集団は、黒海沿岸のウクライナ地域で敗退に次ぐ敗退を重ねたため、ナチスの対ソ侵攻ラインは西へと大きく後退した。最強を誇った中央軍集団のみはその戦線を維持し、結果として、同軍が守るベラルーシが、バルコニーのように東に大きく突き出した状況となった。
 

 対ソ戦で敗退を重ねていたナチス軍は、対英米連合軍の戦いでも苦境に陥りつつあった。1944年6月6日、“D-Day”。遂にこの日、英米を中心とする連合軍がフランス北岸のノルマンディに上陸し、以後、ナチスは、東のソ連、西の米英の、東西両戦線で戦わねばならなくなった。この流れの中で、中央軍集団が守るベラルーシから、西部戦線へと多くの兵力が引き抜かれていった。ソ連赤軍は、この機に乗じて、対ナチスの戦線をさらに西のドイツ本国近くまで押し出そうと、当然目論んだ。
 

 作戦名はバグラチオン。ナポレオンをロシアから撃退した名将の名が、独ソ完全逆転をかけたこの戦いに与えられた。ベラルーシの東辺部にソ連赤軍勢力を集中配備し、ナチス中央軍集団を東から平押しに押して、自国領土から完全に駆逐する作戦である。スターリンは、240万の兵力を、この作戦に充てた。
 

 1944年6月22日。奇しくも3年前にナチスの対ソ電撃戦が始まったその日が、バグラチオン作戦の発動日となった。
 

 3年前のスターリンは、不可侵条約を結ぶドイツが自国に攻め入るはずがない、そうあってほしくないという思いにすがり、現実に目を背け、然るべき防戦の指示を出さなかった。結果、前線の赤軍兵はまともに戦う間もなくナチスの電撃戦に晒され、膨大な戦死者と捕虜を出して、あっというまにこのベラルーシの地を席巻されてしまった。散々の開戦となったその後も、スターリンとソ連赤軍は、迫りくるナチス軍に祖国を蹂躙され、一時は首都モスクワすら包囲の危機に直面したが、その辛酸を舐めるような苦闘の日々は、彼らを別人に育てていった。
 

 話しを再び1944年夏に戻す。スターリン率いるソ連赤軍は、このバグラチオン作戦を、実に巧妙に隠ぺいした。現実にはベラルーシ東辺部に戦力を結集させつつも、その戦車群を巧みに森の中に隠し、上空のナチス偵察機からは、あたかも赤軍はこの地域で守りを固めるつもりで、主戦力をどこか別の地域に持っていこうとしているように見せかけた。ナチス軍は、この陽動作戦にすっかり騙され、なけなしの戦略を、赤軍の侵攻予定地域とは全く別のウクライナ西部に配置してしまった。
 

 この地でのソ連の攻撃を全く想定していなかったナチス軍は、初戦から大崩れとなった。

 *  *  *  *  *

 ベラルーシには、沼沢地を伴う深い森が広がっている。かつてモンゴル民族が騎兵をもってユーラシアを蹂躙した時も、このベラルーシの地には足を踏み入れることが出来ず、ゆえにベラルーシ人は、ロシア人との対比で、モンゴルとの混血がより少ないとの説もある。
 

 要するに、ベラルーシの国土は、ウクライナの平原とは異なり、戦車戦にはあまり適さない。ナチス軍は、赤軍対比で兵力的に圧倒的に不利で、どのみち勝ち目はなかったにせよ、この地形を生かした陣地を構築し、適宜大戦車群を迎え撃ちつつ、段階的に後退すれば、兵力を温存しつつ、ある程度の持久戦を戦うことはできたはずである。
 

 しかし、ヒトラーその人が、その可能性を潰してしまった。ヒトラーはベラルーシの森を走る幹線道路が交差する7つの地点に「確地」と称する要塞を築き、そこに立てこもって敵軍を消耗させるべしとの指令を下した。ヒトラーは、それまでにも数多くの死守命令を下してきたが、最後はいつも退却要請に応じざるを得なかったことに業を煮やしており、今度こそは絶対に撤退を認めないとの決意を固く心に決めていた。
 

 中央軍集団の兵士たちにとって不幸だったことは、現場の指揮官が、この命令に抗議も意見もしなかったことである。もっとも、抗議されたところで、それに耳を傾けるようなヒトラーでは土台なかったが。
 

 ソ連赤軍は圧倒的な兵力で確地の左右から進軍し、ナチスの陣地は包囲の危機に晒された。その危機を察知した現場指揮官は漸く退却の指示を仰いだが、ヒトラーは決してそれを受け入れず、多数のナチス師団がみすみす赤軍に包囲され、既に閉じられつつあった包囲線の突破を試みて多数の戦車と兵員を失いつつ、師団丸ごとで続々と捕虜になった。
 

 ソ連赤軍は火の出るような勢いで確地を各個撃破し、作戦開始からわずか2週間足らずでベラルーシの首都ミンスクを奪回した。その後も勢いが衰えることなく攻め続ける赤軍に、中央軍集団は総崩れとなった。
 

 前方の赤軍との戦いに圧倒的な苦戦を続ける中央軍集団は、後方のパルチザンにも悩まされた。10万を超えるパルチザンがベラルーシの森に点在し、赤軍の総攻撃前の段階から、ナチスの補給線である鉄道を爆破し、送電線を切断する破壊工作を随所で行う等して、ナチス軍の後方を大いに攪乱した。
 

 退却に次ぐ退却を重ねるナチス中央軍集団は、遂に壊乱状態に陥った。逃げ惑う部隊は、渡河地点にわずかに残った橋に殺到し、憲兵の制止も聞かず、お互いの車両を押しのけながら対岸に渡ろうとした。赤軍に追いつかれた渡河地点では、川に飛び込み溺死する兵士が相次ぎ、陸上はナチス兵の屠殺場と化した。
 

 開戦から約2か月の後、バグラチオン作戦はソ連赤軍の圧倒的勝利をもって終結した。この短期間に700kmもの進軍を果たし、3年前のナチス東征を思わせる見事な電撃戦を、ソ連赤軍が成功させた。
 

 一連の戦闘を通し、中央軍集団は、90万人いた兵力のうち、40万人という記録的損害を出して事実上崩壊した。ソ連赤軍もまた、18万人の死傷者を出しているが、スターリンにとってそれは、大きな問題ではなかったかもしれない。
 

 もはや、ヒトラーと第三帝国の滅亡は明らかだった。復活の勝者スターリンの関心は、勝つか負けるかには既になく、勝利のその先で如何にしてより多くの代償を手にするかへと移りつつあった。
 

 そして、かつて揺ぎ無き勝者の立場にあった一方のヒトラーは、目の前に展開される現実に目を背け、ありもしない幻想にすがる哀れな一人の男に成り下がっていた。第三帝国総統という立場と権限を手にしたままの状態で。
 

 こんなはずではなかった。ヒトラーは、この戦争のどの時点からそういう思いを知覚するようになったのだろう。彼が後戻りできる地点はいつだったのか。或いはそれは、開戦間もない1941年の夏に、彼の軍隊が、このベラルーシの針葉樹林を東へ向かって通り過ぎていた頃であったか。いや、そもそも彼には最初から、独裁者としての君臨とセットで、その後の破滅という運命が与えられていたではないか。自分には、何故かそう思えてならない。 (2017年9月)

*著作権及び文責は「Koji Sakamoto’s Blog」に帰属します。

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坂本 航司

神戸出身・パリ在住。

スペイン、メキシコ、オランダ、ロシアの各国を経て、現在はフランスに駐在。ロシア駐在中に単身になったことをきっかけに、元々好きだった写真撮影を再開し、МФК PHOTOS に加入。 そこで出会ったオールドレンズの世界にはまり、ソ連、東独系のレンズを好んで使っている。

歴史や文章を書くことも好きで、独ソ戦に興味を持ち、ロシア駐在をきっかけに、個人的なルポ を書いている。

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