追跡独ソ戦 第八篇「ベルリン陥落」 後編

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 総統地下壕/Führerbunkerは、ベルリン中心部の総統官邸敷地内の地下にあった。30ほどの部屋からなり、ベルリンがソ連赤軍によって包囲されていたこの頃には、その一部が総統大本営として利用され、一部は、ヒトラー本人をはじめ、愛人エヴァ・ブラウン、宣伝相ゲッペルスとその家族の居住地にもなっていた。

空爆にも耐え、毒ガス攻撃にも対抗できる空調装置を備えていたが、中の空気は淀み、湿っていた。ソ連軍の砲撃がこの地域まで到達するようになると、振動によって天井から土ぼこりが落ち、電気も付いたり消えたりするようになった。

 ソ連赤軍のベルリン包囲網は、大きさでいえば、概ね東京の山手線内を想像していただければよいと思う。形としては横長で、その中央部を東西にシュプレー川が蛇行して流れている。ヒトラーたちが立てこもる総統地下壕と、ソ連赤軍がベルリン侵攻の最終的な到達点としている国会議事堂/ライヒスタークは、その中央のやや右寄り辺りに位置する。

 この頃のドイツ第三帝国は、もはやまとまった防衛師団を持っておらず、包囲網の中にある戦力と言えば、崩壊した国防軍の残党5万人弱に、退役世代を中心とした国民突撃隊、少年少女を主体としたヒトラーユーゲント、警察等の民兵を合わせても10万人前後の兵だけであった。兵器弾薬の数も、圧倒的に不足している。

 対するソ連赤軍は、150万人の大兵力と、膨大な数の戦車・砲塔群と弾薬をもってベルリンを取り囲んでいる。それだけの数のソ連赤軍が、山手線の周りを取り囲んで、砲と戦車を並べ布陣している光景をご想像いただきたい。その砲塔群が、包囲網の中へ向けて雨のように砲弾を降り注がせ、砲撃の後には、復讐の念に燃えた兵士たち、そして戦車群が、全力を挙げて市街に突入し、包囲網を狭めてくるのである。

この期に至ってなお、ヒトラーは、かつてはヨーロッパの殆どをその支配下に治めた“彼の世界”が、この先も存続し続け、再起できることを信じた。その妄想にすがったと表現したほうが良いかもしれない。

 一方でヒトラーは、その再起のチャンスを得るためにも、包囲網が閉じる前にベルリンを脱するべきだとの側近の提案をことごとく却下し、あくまでベルリンに留まるという姿勢を崩さなかった。ヒトラーにとっては、彼の世界、すなわち、ナチス第三帝国という世界の中心は、あくまでベルリンでなくてはならなかったのだろう。

 それはそのまま、攻めるソ連赤軍とスターリンにとって、ベルリンが特別な存在であったこととの表裏をなす。愛する国土を蹂躙され、家族を奪われたロシア国民と、その復讐劇の執行者であるロシア赤軍、スターリンにとっては、ベルリンこそが、どれだけの犠牲を払っても叩き潰すべき、第三帝国の象徴そのものであった。

 この、ベルリンを巡るヒトラーとスターリンのこだわりは、当時の英米仏にはおよそ理解できなかった、より正確にいえば、認知されようがなかったものであろう。

 4月22日、総統地下壕で、国防軍とSSの幹部たちによるヒトラーへの戦況報告会議が開かれた。明るいニュースは何一つなく、誰にとっても開催したくない会議であった。

 この時点で、ソ連赤軍のベルリン包囲網の外側に残っていたドイツの残存兵力は主に3つであった。ゼーロウ高地での戦いに敗れ、撤退中にベルリンの南東部でソ連赤軍に包囲されている第9軍。エルベ川方面から攻め込んでくる米英軍を食い止めるために、ベルリン南西部に展開していた第12軍。そして、ベルリン北部のシュタイナー師団である。第9軍は満身創痍、第12軍も津波のように押し寄せるソ連赤軍に阻まれ進軍がままならず、シュタイナー師団に至っては、歩兵部隊2個連隊のみで重火器も持たない極めて小規模な戦闘集団であった。

 これら3つの包囲網外兵力のいずれも、ソ連赤軍の包囲網を突破してベルリンを救出に来るなどどう考えても不可能であったし、その事実は、将軍たちの報告内容、机上に広げられた地図の双方から、明々白々であった。それでもなお、ヒトラーは、これらの軍にベルリン救出命令を下し、第9軍、12軍、そしてシュタイナー師団がソ連赤軍を蹴散らし進んでいく様を熱弁した。

 将軍たちは、粘り強く客観的事実を報告し、ヒトラーの期待が既に妄想でしかないことを諭そうとした。しかし、現実をどうしても受け入れられないヒトラーは、そうした将軍たちの報告を、無能さ、臆病さ、不誠実によるものだとし、遂には激高して、髪を振り乱し、机を拳でたたきつけながら、彼らを罵った。

 この嘘つきども!臆病者、クズ、恥さらし、負け犬、売国奴!!お前たちはいつも自分の邪魔をした。お前たちのせいで自分はこんな惨めな目に合わされるのだ。

 総統ヒトラーと第三帝国のために生死をかけて戦っている前線の兵士たちと、彼らと共に決死の帝都防衛に腐心する将軍たちに対する、あまりの悪態、あまりの侮辱である。これには、さすがの側近たちも閉口し、苦言を呈したが、ヒトラーの癇癪は、留まるところを知らなかった。ヒトラーは殆ど半狂乱になり、泣かんばかりに喚き散らし続けた。

 その怒りは、これほどまでに弱きものに落ちぶれてしまったドイツ民族、或いは自分自身に対する失望との表裏をなすものだったのかもしれない。世界に冠たる強者であってこそのアーリア人ではないか。相手を叩きのめし服従させる強さこそが我が民族にふさわしく、自分は、その民族を束ねる栄えある総統なのだ。そうだったではないか・・・。

 それがもはや“否”であるとの現実は、ヒトラーには、到底受け入れられるものではなかったのだろう。

 ヒトラーは、独裁者となって後、オーストリアを併合した際に、自分の故郷であるリンツの街を訪れている。この時に、父の生地をわざわざ軍事演習地に選んで破壊させているが、その事が、彼の人生の何事かを象徴しているように思う。自分を踏みにじった者たち、憎むべきその“世界”に対する復讐。その復讐を可能にする強さと暴力の獲得。それこそが、ヒトラーの人生そのものだったのかもしれない。

 ヒトラーは、自分を否定した世界に復讐するために強くあろうと決意し、それが、第一次大戦敗戦の屈辱と貧困のどん底で喘いでいたドイツ国民の苦しみや憎しみと一体化して、爆発的な力を持つ存在となった。そして、国家民族が一丸となって、自分たちを踏みにじった者たちに大いなる制裁を与え、彼らとは全く異なる体系の世界を作り上げて、全地球をその色に塗り替えようとした。

 一時は成功するかに見えたその野望も、どこでおかしくなったのか、東西両方から押し戻されてしまった。そして遂に、帝都ベルリンを包囲されるに至り、自分たちの敗北を認めざるを得ない現実が今、目の前に突き付けられている。

 ヒトラーは、総統地下壕の会議室で、あらん限りの罵詈雑言をぶちまけた後に、静かなる絶望と共に思った。我々は、結局は弱きものだったのだ。だとすれば、死に絶えるしかないではないか。自分も、国家ドイツも、そして、ドイツ国民も。

 市街戦に市民を巻き込む悲劇を少しでも少なくせんとしてなされた将軍たちの提言を、ヒトラーはことごとく却下した。「それでは、総統閣下を信じてついてきた国民に対しあまりではないか。」との主張に対しても、「弱者にそのような配慮をする必要がどこにある。」と一蹴した。

 ヒトラーはまた、ソ連赤軍が地下鉄の路線を伝ってベルリン中心部に侵入してくるとの報を聞き、運河壁を爆破して、地下鉄構内を水に沈めてしまうよう指示を出した。地下鉄構内には、空襲や爆撃を逃れた多数の市民や負傷兵がいるのでそれは出来ないとの将軍達の進言にも全く耳を傾けず、作戦を強行させた。そのような役に立たない者たちには、そもそも生きている価値がない。それがヒトラーの主張であった。

 そのことに関しては、ヒトラーは一貫していたといってよい。その考えのもと、ポーランドをはじめとする東欧諸国民を奴隷化し、ロマやユダヤの民を、ゴミを焼却するように殺害した。ドイツがソ連に負けるのだとすれば、ドイツ人がスラブ人に淘汰されるだけの話しである。それが自然の摂理なのだ・・・。

 地下深い総統大本営でのヒトラーの絶望。無能なる我が民族。

 しかし、ヒトラーの思想を体現するという意味においては、彼が選んだアーリア人、特にその”精鋭”たちは、かつて彼が思った通りに優秀だったかもしれない。彼らは、ヒトラーが思い描いた“あるべき姿”の実現へ向け、第三帝国が今まさに滅亡せんとしているこのタイミングのベルリン市街においてなお、忠実に任務を執行していたのである。

 ベルリン市民を死に追いやるものは、ソ連赤軍だけではなかったということである。ドイツの抵抗がもはや無意味になったこの戦況下においても、ナチ党の執行部隊である親衛隊/SSは、栄光ある第三帝国国民としての義務の履行を国民に強要し、容赦なく、かつ執拗に、彼らを死地へと追い立てたのである。

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 ベルリン市街戦において、守るドイツ側の戦力は、国防軍、親衛隊/SS、国民突撃隊、そしてヒトラーユーゲントの4つの集団によって構成されていた。

 国防軍とは、文字通り国家ドイツに帰属する軍隊であるが、ヒトラー政権と完全に一体化したものではなく、第一次大戦によるドイツ敗戦後に締結されたヴェルサイユ条約の取り決めに背いて再軍備を進めたい国防軍と、それを支持・支援する代わりに独裁的政権運営を認めるよう求めたヒトラーとの“取り引き”によって、第三帝国の軍事の主力を担う存在だった。

 一方で、国防軍のエリートの殆どは、ユンカー系富裕層の軍人名門家の出であったため、庶民の出で、かつ軍人としては伍長でしかなかったヒトラーのことを、心の中では蔑んでいた。当然のことながら、劣等感の強いヒトラーが、そのような国防軍の将軍たちのことを愉快に思っていたはずはない。いずれにしても、ベルリン市街戦の局面においては、ドイツ国防軍は既に壊滅の状態にあり、ベルリン市街地にはわずか5万弱の兵力しか残っていなかった。

 もう一つの武力集団は、親衛隊(Schutzstaffel:略称SS)である。元は文字通りヒトラーの身辺警護を担う彼の私兵であったが、ナチス独裁政権確立後はドイツ全土と東方植民地の警察権を事実上掌握して国民を統治し、さらには、武装親衛隊と呼ばれる軍隊まで持って、国防軍と半ば競合する立場で東西両戦線での戦闘に参加した。

 武装親衛隊は、エリート部隊として過酷な訓練を受けて玉砕も辞さぬ覚悟を持ち、また、常に最新鋭の武器を宛がわれていたため、最も過酷な戦場には常に彼らの姿があり、死傷率も極めて高かったという。

 SSの指導者はハインリヒ・ヒムラーである。ヒトラー以上に冷酷非道な男で、ヒトラーが政治家として駆け出しだった頃は、彼の手先となって政敵を殺害して独裁政権確立に尽力した。後に、全権委任法によってナチスの独裁が成立すると、ゲシュタポ等の各種警察組織を使って、反ナチスの分子を徹底的に取り締まり、強制収容所に送るなどして膨大な数の国民を殺害した。ヒムラーは、第三帝国の基盤強化に絶大なる功績を遺したわけである。忠臣ハインリヒ。彼のことを、ヒトラーはそう呼んだ。

 SSはまた、アインザッツグルッペンと呼ばれる殺人執行組織を使って、東方領土で多くのポーランド人知識層を殺害した。さらには、ガス室を使ってユダヤ人の大量殺戮を執行したのもSSである。ヒムラーは、殺人の組織化、産業化という観点で、古今に例を見ない凄まじい成果を上げた。

 SSは、ナチズムの狂気と暴力の中核といってよいであろう。

 ベルリン市街戦におけるSSは、その武装部隊が国防軍と共に自ら武器を取って戦ったが、もう一方の警察組織の方は、隷下に置く民兵組織、ヒトラーユーゲントと国民突撃隊を指揮する立場にもあった。

 ヒトラーユーゲントとは、SSが作った青少年組織であり、1936年からは、10歳から18歳の全少年に加入が義務付けられた。少年たちは、褐色の制服に赤いハーケンクロイツの腕章を付け、放課後や週末の活動で集団生活をしながら、身体訓練やナチ的思想の教育、さらには準軍事訓練を施され、いずれ戦場に向かう男子として育成された。

 第二次世界大戦がはじまり、ドイツの形勢が不利になって兵員が不足すると、ヒトラーユーゲントの少年たちも、年長者から順に戦場に駆り出されていった。彼らは、若く健康で、何よりも、自我を形成する過程からナチ的世界観を叩き込まれているため、一点の陰りもなくその思想を信じ、勇敢に、必要とあらば良心の呵責なく残虐に行動することも出来る兵士として、各地の戦線で活躍した。

 ベルリンが包囲されつつあった頃には、10代前半の少年たちも、壮年の大人たちがいなくなった街を防衛するために、高射砲の掃射手として戦闘に参加するようになった。彼らは、祖国の勝利を揺るぎなく信じ、敵国の機体を撃墜する度に歓喜の声を上げた。

 ソ連赤軍がベルリン市街に突入してくると、少年たちは、遂に地上戦にも駆り出されることとなる。ある者は、街の十字路に設置された砲塔陣地で大人の戦闘員とともに戦い、ある者は、瓦礫の物陰からパンツァーファウストを発射して赤軍戦車を迎撃した。当然のこととして、ソ連赤軍の砲弾や銃撃の対象となり、多くが戦死した。

 街中に転がる市民の遺体を集め、トラックに載せるのも、少年たちの仕事であった。遺体には、腕や足、そして胴体がバラバラになったものも多くあった。

 大人たちは既に、この戦争に勝ち目はなく、命を投じる意味もないことを知っていたが、少年たちはそうではなかった。彼らは最後まで第三帝国の栄光を信じ、勇敢に闘って、多くの若い命を散らしていった。

 ベルリンの戦場には少女の戦闘員もいた。SSは、ヒトラーユーゲントの女性版として、ドイツ少女団と呼ばれる組織を作り、理想的な良妻賢母となり、優秀なドイツ人男子を生むための教育を、彼女たちに施したのである。

 少女団は、SS主導の生殖プロジェクトにも関与させられていた。SSは、金髪碧眼で見栄えの良い、“理想的なアーリア人”の数を増やすため、そうした子供たちを生み殖やすにふさわしい若い男女に性行為を強要したのである。これは、成人男女に対しても行われ、結婚していないが、種としての適合性を有するとナチスが見なす若い女性の多くが、レーベンスボルン(命の泉)という母子保護施設に入れられ、既婚の男性、主にはSS隊員との性行為によって子供を産むことを強いられた。生まれた赤ん坊たちは、SSに帰属する存在となり、生後1か月の命名式で額にナチスの刀剣をかざされ、祖国への忠誠を“宣誓”させられた。

 戦後、本人には何の罪もないその子供たちが、ナチズムの悪しき遺産と見なされ、社会から後ろ指をさされながら生きて行くか、母と共にそのことを自分たちだけの秘密にして生きて行くことを強いられたのである。自分の出生の秘密について、最後まで母が明かしてくれなかった子供たちも多かったという。

 ナチズムという思想は、彼らが劣等と見なす人々の人権を、強制収容やホロコーストという形で蹂躙したが、選民であるとした自国民の人権をも、別の形で、実に広範囲において踏みにじっていたということである。

 もっとも、そのような思想を国家の中心に据えたのは、ドイツ人たち自身の選択によるであった。その全てをひっくるめた、あまりにも重い現実が後のドイツ人に残した心の傷の深さは、他国民には想像もできないものであろう。

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 ヒトラーユーゲントと並び、瓦礫と化しつつあったベルリンで闘ったもう一つの民兵集団が国民突撃隊である。戦争も末期になった1944年9月に、16歳から60歳のドイツ人男性を大動員して編成された部隊で、その数は600万人にも上った。ただ、10代男子は基本的に前述のヒトラーユーゲントに入っていたし、青壮年男性の殆どは既に正規兵として徴兵されていたので、構成員の大半は初老の男達であった。

 この頃のドイツは、既に国家全体が深刻な物資不足に陥っていたため、国民突撃隊の兵士達には、機関銃はおろか、ライフルすらも十分に行きわたらず、彼らが第一次世界大戦で使用した旧式の銃をそれぞれ持ち寄って使わねばならぬ程であり、弾丸の数も全く足りなかった。

 国民突撃隊には、制服の支給すらなかった。かつての兵役時代の軍服や、職業上の制服を持っている者はそれを着用し、何もない者は、ただ腕章だけを腕に付けた。もはや、軍と呼べるような代物では全くなく、実態としては自治会の武装自警団と言ったほうが近い。

 彼らに与えられた唯一有効な兵器は、パンツァーファウストである。どんぶりを二つ合わせたような砲頭に1mほどの鉄パイプが付いただけの簡単な代物だったが、これを肩に担いで発射させ、運よく敵の戦車に命中させると、戦車の壁面に当たってつぶれた砲頭部でモンロー効果によって高温状態が起き、それが針のような熱線となって戦車の装甲を貫通して、内部にいる戦車兵たちを高熱で焼き殺すという優れものである。製造も簡単で安価であった。

 しかし、この頃のパンツァーファウストの射程距離は30メートル程度であり、向かってくる戦車をギリギリまで引き付けてから発射する必要がある。国民突撃隊の男たちは、崩れかけた建物やバリケードの陰に巧みに身を隠し、そこからパンツァーファウストを発射したが、運よく戦車を仕留めたとしても、その瞬間にはどこから撃ったかが敵にわかってしまい、重砲か機関銃の報復を受けて死に至る確率が極めて高い捨て身の戦法であった。自爆テロとほぼ変わらない。このことは、ヒトラーユーゲントの少年兵についても同様であった。

 ソ連赤軍は、圧倒的な兵力でじりじりと包囲網を狭めてくる。街区のあちこちで防戦に死力を尽くしていた国防軍も、いよいよ戦線が持たない状況となってくると、逐次、部隊を後退させる判断を下した。付近では、ヒトラーユーゲントや国民突撃隊の兵員たちも入り乱れて戦っている。彼らにも撤退するよう促した。しかし、彼らの指揮権はあくまでSSに帰属している。

 ヒトラーユーゲントの少年兵たちの一部は、撤退しなさいと促す国防軍兵士たちの“良識”を恥すべき行為であると罵り、自分は最後まで闘うとその場に留まってソ連赤軍の銃弾と砲撃の餌食となった。

 年を重ねた国民突撃隊の男たちは、少年兵達ほど可憐ではなかった。彼らは、どう考えても勝ち目のない戦場から逃げ出そうとし、また、もはやそのような戦場に出ることすら自殺行為ともいえる状況であったため、招集に応じず隠れるものも多くあった。どう考えても兵士の体をなしていない彼らとしては、そういう行動に出て当然だったろう。

 しかし、SSにとってそれは、許すまじき行為である。SS隊員は、すぐ向こうの角までソ連赤軍が迫っている状態であるこの期に及んで、“逃亡罪”を犯す国民突撃隊の男たちの取り締まりと、その場での処刑を断行したのである。

 SSは、ソ連赤軍の侵攻で騒然となっていたベルリン市内で、自室や地下壕に避難する市民の中に国民突撃兵がいないかをしらみつぶしに探して回り、見つけ次第路上に引きずり出して移動裁判にかけた。

 ゲシュタポをはじめとするSS傘下の警察組織群には、“保護拘禁”という権限が与えられていた。反国家分子の“疑いがある”というレッテルを張るだけで、何の証拠もなく、かつ、司法の干渉も受けず、ターゲットに選んだものをいかようにでも処分できる特権である。

 SSは、路上に引きずりだした男たちを、家族が見ている前で銃殺した。私の主人を、父を、私たちのおじいちゃんを殺さないで。泣きすがる家族を一顧だにせず、容赦なく死刑を執行した。

 付近にいた国防軍兵士がさすがに状況を見かね抗議することもあったが、それもまた、SS側から見ればあり得ない行為であった。SSは、自分たちの職務執行にそれ以上干渉するようであれば、相手が国防軍であっても銃口を向け攻撃するという姿勢を崩さず、国防軍としては、その無意味な展開を回避せざるを得なかった。

 SSは、逃亡罪と見なした国民突撃隊の兵士たちを吊るし首にもした。 “私は裏切者です。”というプラカードを首からかけられ、街灯や街路樹にぶら下げられた男たちの死体が、ベルリン市街の至るところで見られた。

 そのようにして、数えられないほど多くのベルリン市民が、本来彼らを守るべき立場であるはずの自国組織によって、実に無意味に、死地に向かわされたのである。そこには合理性のかけらもなく、狂気と呼ぶほかない。

 SSの狂信的な職務執行は、絶滅収容所でも同様に継続されていた。有名なアウシュビッツは既にソ連軍の制圧下にあったが、連合軍の手が及んでいない領域に残っていた収容所の現場部隊は、第三帝国が敗戦を認め武装解除が行われるその瞬間まで、収容者の殺戮行為を、粛々と遂行していたのである。第三帝国が明日にでも滅ぶかもしれない状態にあることを、現場の執行者たちが知らなかったとは思えない。それでもなお、彼らは、機械のように忠実に、職務を遂行し続けた。

 断末魔においてなお、おぞましいまでの光芒を放つナチズムの思想。外部からの力により、完全に息の根を止められるまで、その暴走が止まることはなかった。

 それが、人々の苦しみや憎しみを飲み込んで成長した“渦”の恐ろしさであると自分は思う。それ自体が、独裁者やその取り巻きの手すら離れた独立した生命と意志を持ち、圧倒的な非合理性のもと、人々の生命をはじめとするあらゆるものを巻き込み、踏み潰していくのである。

 この生き物は、戦時下の我が国にも存在した。青年将校としてあの戦争に従軍した山本七平氏は、その現象を“組織の自転”と評している。

 ベルリン市街でのソ連赤軍による容赦ない攻撃は留まるところを知らない。包囲網の外からは、雨の方に砲弾が降り注ぎ、建物に隠れた市民たちを諸共に瓦礫の下に埋めた。市街の水道は既に止まっており、女たちは、家族が生き延びるために、バケツをもって通りの水汲みの行列に並んだが、砲弾の直撃を受け死ぬものも多くあった。行列の一団全員が、バラバラ死体になって辺りに散らばるのである。

 ベルリン市街における、目を覆いたくなるような惨劇の数々。しかし、そうした武力の激突も、遂に終わろうとしていた。ナチス第三帝国の滅亡は、もはや、火を見るより明らかであった。

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 第三帝国の滅亡は、もはや疑いようもなかった。ヒトラーは、包囲網の外側にある幾つかの軍団が、魔神の如き働きで自分たちを救いに来ることを妄想し、或いは、東からのソ連赤軍と西からの英米軍がベルリン近郊で邂逅することによって、両者が同士討ちをはじめ壊滅する物語を夢想した。彼は、ある時は絶望的になって、もうおしまいだ自殺すると嘆き、またある時は、興奮して大逆転の妄想をまくし立て、意味不明な指示を乱発し、軍と指揮官の無能を罵り続けた。

 総統地下壕へと迫りくるソ連赤軍の情報以外にも、ヒトラーとして受け入れたくないニュースが彼の耳に入ってきた。その一つが、側近中の側近であったはずのヒムラーの離反だった。彼は、ヒトラーと共に、超法規的権力者としてナチス第三帝国に君臨したが、もはや滅びるしかない帝国とヒトラーをこのタイミングで見限り、今後想定されるソ連と西側諸国との利害の対立に付け込んで、自分が窓口となって敗戦後のドイツを西側に引き渡す交渉を、秘密裏にはじめた。そうすることで、己の身の安全を確保し、あわよくば我が身をうやうやしく扱ってもらえることを期待したのであろうか。

 具体的には、スウェーデン赤十字社を通じ、ソ連抜きで西側と部分講和することを画策した。さらには、アメリカ国内にもこの講和を支持するロビー勢力があったほうがよかろうと考え、なんと、在米の世界ユダヤ人会議に協力関係の構築を持ち掛けた。「自分は、ユダヤ人とは浅からぬご縁なのだ。」とでも思っていたか。交渉の目的は、ドイツとユダヤ人の間で、「そろそろお互いが振り上げた斧(拳)を下ろそうではないか。」との言い草であった。

 ヒムラーの提案はアメリカ政府に届けられたが、ドイツから直接的に祖国を蹂躙されたソ連のみならず、途中から加勢したアメリカにとっても、この戦争の決着はドイツの無条件降伏以外ありえず、このような虫のいいヒムラーの提案が受け入れられるはずもなかった。どころか、ヒムラーのこの節操のない提案は、ニュースとして全世界に報道されたのである。

 総統地下壕の第三帝国大本営とヒトラーは、その事実を4月28日のBBCのラジオ放送で知った。この辺りの顛末は、悲劇を通り越してもはや喜劇のようでもある。

 ヒトラーは、殆ど発狂せんばかりに怒り狂った。側近たちは皆、所詮自分の事しか考えていなかっただろう。国防軍に至っては、自分の暗殺計画すら複数回にわたって企てた。しかし、ヒムラーだけは違うと信じていた。そのヒムラーが、忠臣ハイドリヒが・・・。可愛さ余って憎さ百倍となったヒトラーは、ヒムラーの逮捕命令を出し、ヒムラーの伝令将校役としてベルリンに残っていたフェーゲラインを、彼がヒトラーの愛人エヴァの義理の弟であるにも関わらず射殺の刑に処した。

 ヒムラー自身は、様々な顛末を経た後、一兵卒であるふりをして西側への脱出し捕虜となったが、その境遇の悪さに音を上げて自ら身バレした。我こそは、ナチス第三帝国の内務大臣にして、SS/親衛隊の全国指導者であったヒムラーであるぞ。それでもなお、ヒムラーは、他の兵士同様に全裸での身体検査を強要された。俺を誰だと思っていると凄んだヒムラーに、検査員は、その事実はこの検査に何ら変更をもたらすものではないと告げ、口の中に何かを隠し持ってないかを確認するために指を突っ込もうとした。その瞬間、ヒムラーは、検査官の指に噛みつき、口の中に隠し持っていたシアン化合物のカプセルを奥歯で噛み砕いて自殺した。

 それが、狂気の集団である親衛隊を生み、ドイツと東欧に狂ったイデオロギー帝国を築いた男の最期である。

 話しを総統地下壕に戻す。

 包囲網の外の遊軍たちは何をしている!?いつになったらベルリンを救出に来るのだ?ヒトラーは喚き散らした。その状況の報告を求めるべく、29日深夜、ヒトラーは、短い電報を打たせた。

Es ist mir sofort zu melden: 至急報告サレタシ
1.) Wo Spitze Wenk? ヴェンク(第12軍)ハ ドコカ
2.) Wann tritt er an? 彼ラハ イツ攻撃ヲ開始スルノカ
3.) Wo 9. Armee? 第9軍ハ ドコカ
4.) Wo Gruppe Holste? ホルステ軍団ハ ドコカ
5.) Wann tritt er an? 彼ラハ イツ 攻撃ヲ開始スルノカ

 彼が得た返信は、以下のようなものであった。

1.) 第12軍ハ シュビーロウ湖ノ南ニテ ソ連軍ニ阻ムル
2.)右ノ結果 第12陣ノベルリンヘノ進軍 能ワズ
3.)4.) 第9軍ハ ソ連軍ノ包囲下ニアリ 
5.)ホルステ軍団ハ ソ連軍ノ攻勢デ動ケズ

 ここに至って遂に、ヒトラーは、第三帝国と我が身に明るい未来など微塵もないことを、現実のものとして受け入れざるを得なくなった。

 ヒトラーは遂に、自決することを決意した。

 ちなみに、4月29日には、ヒトラーにとってもう一つの聞きたくないニュースが届けられている。かつてはヒトラーの盟友であり、イタリアファシスト党の独裁者であったムッソリーニが、政権を追われ、愛人と共に逃亡していた先で民衆に捕まり、なぶり殺しにされた挙句、その亡骸が、ガソリンスタンドの軒先に晒しものとして吊るされたとの報であった。ヒトラーも、総統地下壕を脱出したところで、そうなることはほぼ自明であった。

 自決する覚悟を決めたヒトラー。だがその前に、彼には、やっておかねばならないことが二つあった。

 一つは、遺書の口述筆記である。ヒトラーは、秘書のトラウドル・ユンゲに命じ、公的な遺書と私的な遺書の一通づつをタイプさせている。

 ヒトラーが、死ぬ前にやっておかねばならなかったことの最後は、愛人エヴァ・ブラウンを妻とすることであった。エヴァとは、既に13年に及び関係を結んでいたが、ヒトラーは、自らの人生は全て国家に捧げたため結婚はしないのだと公言していたこともあってか、エヴァとは籍を入れていなかった。エヴァは、その境遇を絶望し、何度か自殺を試みている。

 ベルリンが包囲され、第三帝国の滅亡が濃厚になる中、エヴァは、周囲やヒトラー自身が止めるのも聞かず、飛行機でベルリンに飛来し、総統地下壕に押しかけてきた。最初から、一緒に死ぬ気だったのだろう。

 4月28日深夜、阿鼻叫喚の地獄と化した地上のベルリン市街から、事情のよくわからぬ役人が総統地下壕に呼びつけられ、彼を立会人とした、ヒトラーとエヴァのための、ナチ式の婚姻の儀式がとり行われた。

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 邦題で「ベルリン陥落」という名前のソ連映画がある。1949年にソ連で公開されたプロパガンダ映画だが、その中で、このヒトラーとエヴァの結婚式が、痛烈な皮肉を込めて描かれている。

 ナチス第三帝国が、今、正に滅亡せんとしている。ソ連赤軍がすぐそこまで迫ってきていると総統地下壕に注進に来た若い兵士達は、将官に「総統は今お取込み中だ。」と門前払いを受け、「総統閣下は今、結婚式をとり行われているのだ。」と告げられる。結婚式?兵士たちはお互いの顔を見つめ、ひきつった薄ら笑いを浮かべて、やがて爆笑する。怒りを通り越して発狂に至ったのである。

 総統地下壕内の挙式で、腕を組んで進むヒトラー夫妻。劇中、高らかに鳴り響く結婚行進曲。

「総統閣下は・・・、総統閣下は・・・結婚式だとよ!!」

 兵士達は笑い狂いながら砲弾が飛び交う地上に飛び出していき、ソ連赤軍の砲撃で爆死する。大混乱のベルリンの街を、息子の安否を気遣い徘徊していた老婆が、屍となったその息子を見つけ、膝に抱き上げて悲痛な叫びをあげる。その間も、ベルリンのあちこちで繰り広げられている数々の悲劇。地下鉄構内に流し込まれた運河の濁流に飲まれ死んでいく市民たち。それらのシーンをバックに、結婚行進曲が大音量で流され続ける。全くのフィクションだが、第三帝国の、断末魔の狂った世界を象徴的に表現しているような、強烈なシーンである。

 総統地下壕に籠ったヒトラーに昔の精彩はなく、56歳という年齢にも関わらず、見た目は70過ぎの老人のようであったという。彼の左腕は、激しい痙攣が止まらない状況になって既に久しく、猫背になって長く歩くこともできなくなっていた。ヒトラーは、独ソ戦を始めた1941年頃から、パーキンソン病を発症してたとの説もある。

 4月30日、ヒトラーは、軍の司令部から、翌日までには全ての弾薬が尽き、ソ連赤軍への反撃を停止せざるを得ないかもしれないとの報告を受けた。機は熟したと見るべきであろう。

 ヒトラーは、軍医ハーゼに相談し、シアン化合物(青酸カリ)と拳銃を使って自殺することを既に決めていた。しかし、肝心のシアン化合物のカプセルは、裏切者となったヒムラーの支配下にあったSSが手配したものである。ヒトラーは、それが本物であるかを疑い、総統地下壕に連れてきていた愛犬ブロンディに無理やり食べさせ、彼女が死ぬのを見届けることで、確かに本物だとの安堵を得た。

 30日の昼、ヒトラーは、秘書たちと食事をとった後、側近たちに最後の挨拶をした。ヒトラーは、総統地下壕の廊下に並んだナチス幹部と国防軍将官、そして秘書たち一人づつと、静かに握手を交わし、別れを告げた。そして、それが終わると、エヴァと共に自分の執務室に入っていった。

 暫くの時が流れ、総統地下壕に鈍い銃声が響いた。側近が扉を開けると、ソファーには、毒を仰いで死んだエヴァと、頭部を拳銃で撃ちぬいて死んだヒトラーの遺体があった。ヒトラーは、頭部に拳銃当て発射する直前に、奥歯でシアン化合物のカプセルを嚙み砕いていた。辺りには、シアン化合物独特の匂いが充満していたという。

 側近たちは、ヒトラーとエヴァの遺体を地上まで運び、あらかじめ用意していた大量のガソリンを注いでそれを焼いた。何があっても自分の遺体をソ連軍に渡してはならぬ。それが、ヒトラーからの厳命であった。

 人の遺体というものは、屋外でガソリンをかけて火をつけた程度では、十分には焼けないようである。側近たちは、黒焦げにはなったものの、まだ人の形を残しているヒトラーとエヴァの死体を、総統地下壕の出口近くに着弾した赤軍の砲弾で出来た穴に横たえ、上から土をかけて埋めた。

 そのようにして、ヒトラーという稀代の独裁者の一生は終わった。1945年4月30日午前3時、ヒトラー自決。ソ連赤軍は、総統地下壕まであと数ブロックというところまで迫っていたが、彼らが総統地下壕の場所とヒトラーの遺体を確認したのは、戦闘が終わって随分経ってからである。

 ヒトラーの死と共に、彼を宿主として20世紀の近代社会に降臨した化け物は、再び、地底の奥深くへと戻っていった。

 人々の心の奥の深い部分、深層心理の領域は、民族や地域、さらには時間も超えて繋がっているのだろうと自分は考える。ヒトラーに憑りついていたそいつは、今も世界人類の心理の奥の深い森の中を徘徊し、再び地上に躍り出るチャンスを伺っているはずである。

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 首領ヒトラーが死してなお、ベルリン市街での戦闘は続いた。ソ連赤軍からすれば、この時点ではまだヒトラーが自決したことなど知りようもないし、祖国の仇をとるためには、今ここで攻撃をやめるという選択肢は、あろうはずもなかった。

 スターリンとソ連赤軍、さらには、ロシアの全人民にとって、この戦争は、ベルリンを陥落させ、ナチズムを象徴する2つのものを自らの手に治めることでこそ完結するのであった。その2つのものとは、独裁者ヒトラーその人の首と、第三帝国の象徴であるドイツ国会議事堂、ライヒスタークであった。

 この大混乱の市街戦の中で、どこに隠れているかもわからないヒトラーを探し出し、その首を上げることは至難の業である。そう意味で、ベルリン市街戦におけるソ連赤軍の軍事侵攻上の戦略目標は、ライヒスタークただ一点であった。ライヒスタークは、ベルリン中心部にあり、有名なブランデンブルグ門のすぐ北に位置していた。

 ただ、皮肉にも、ライヒスタークは、既に国会としての機能を失い、ただの廃墟になって久しかった。1933年、ナチ主導の狂言と言われる国会議事堂放火事件によって焼け落ちて以降、ライヒスタークは廃墟となり、また、ナチ党の独裁政権になったため、国会そのものが開かれることがなかった。

 しかし、そんなことはソ連赤軍の知ったことではない。既に勝ちの決まったこの戦争の最期のけじめは、ライヒスタークを占拠し、そのドームの上に赤軍旗を立てることと決まっていた。共産主義の世界では、象徴こそが重要なのだ。4月26日、ベルリン中心部への総攻撃が開始された。ソ連赤軍は、45万の大兵力をもって、ライヒスタークを目指し、ベルリン中心部になだれ込んだ。

 “大祖国戦争”、ロシア人たちは、ドイツから仕掛けられたこの血みどろの戦争をそう呼んだ。今こそ、悪の根源、ナチズムに止めを刺すのだ。

 1941年の夏の日、突如押し寄せたナチスの兵たちは、自分たちの村の全てを焼き払い、父と母を殺し、恋人を犯し、幼い弟や妹の命も奪った。そうした憎しみを携えて前線で闘い、散っていったロシアの若い兵士たちの数は、このベルリンにたどり着くまでに既に数百万に達していた。その悲しみと屍の全てを乗り越えて、自分たちが今、遂に、憎きナチス第三帝国に止めを刺そうとしているのだ。

 前線の赤軍兵士たちは、ベルリンの中心部に撃ち込む砲弾に、白いペンキで、蹂躙された祖国や、死んでいった愛する者たちに捧げる言葉を様々に書き込んだ。“スターリングラードのため”“ドンバスのために”“孤児と寡婦のため”“母親たちの涙のために”・・・。

 ソ連赤軍の戦術は、包囲網の外から猛烈な砲撃を加えた一角に、間髪入れずに歩兵を進軍させ、その一帯を占拠するというものであった。それを、大混戦の市街地の真っただ中で行うのである。ソ連赤軍は、例えばBR-5 280ミリ臼砲という、キャタピラの付いたものとしては破格ともいえる巨大さの重砲を最前線に送り込み、数百メートル先の敵陣に砲弾を撃ち込ませ、その付近で待機していた歩兵を着弾エリアに進軍させて、ベルリン中心部へとゴリ押しに押し進んだ。

 BR-5の着弾痕は、直径10メートル、深さ6メートルにもなったという。それを、地図だけを頼りに、目視出来ない数百メートル先の攻撃目標へ正確に打ち込むのである。その付近には、友軍の歩兵部隊が展開しており、双方が司令部と無線で連絡を取りながら連携するのである。打ち込む砲弾が目標を外れれば、或いは、歩兵部隊の進軍のタイミングが合わなければ、多数の戦友たちを自らの砲弾で吹き飛ばすことになる。事実、ソ連赤軍が、狭い市街にあまりに多くの軍を展開させ過ぎたことによる誤射や同士討ちは、山ほどあったようである。

 しかし、そのような、生命の危険への躊躇は、ソ連赤軍は、そもそもの文化として持たなかった。その文化の根っこを掘っていけば、あの冷たく凍てつく冬に支配された、ロシアという大地にまで繋がっていくのかもしれないと自分は思う。それは、或いは現代のロシア人にも当てはまる普遍的なものなのかもしれない。これは、あくまで私見である。しかし自分は、ロシアという国が、自国の大地を穢したものに対し、自らの命を捨ててでも復讐せんとするこの独特の凄まじさについて、背筋が寒くなるような戦慄と畏怖を禁じ得ないのである。

 ソ連赤軍のそうした凄まじさは、市街地での白兵戦にも見て取れる。空爆と砲撃により街全体が廃墟と化してしまったベルリンは、それ自体が巨大な要塞であった。既に師団レベルでの戦闘が出来なくなったドイツ兵たちは、その廃墟の各所に潜み、頑強なゲリラ戦で抵抗した。このような状況では、攻め手側の生命の危険度は極めて高くなるが、ソ連赤軍は、そのような兵の命の危険性には一切斟酌せず進軍を続け、ビル一棟、部屋一つを巡って、守るドイツ兵の間と一進一退の凄惨なる白兵戦を繰り広げ、敵陣の中心部へと粘り強く進軍していったのである。

 かつてのスターリングラードがそうであった。かの闘いでは、ソ連赤軍は、圧倒的に劣性な中でもこの戦術によって恐るべき粘りを見せ、遂には、絶対叶わないと思われたドイツ軍に対する大逆転を実現し、最後は、極寒の雪原を撤退するドイツ軍を包囲し、全滅に至らしめたのである。ソ連赤軍は、独ソ戦全体の戦局を変えたあのスターリングラードでの決死の戦術を、この大戦争のエピローグであるベルリン戦でも再び演じて見せたのである。

 このような闘い方は、英米軍には到底出来ようわけもなく、ベルリンをソ連が単独で陥落させることになった要因として、東西両連合国の国際政治的駆け引きがあったこともさることながら、東西両陣営の戦争犠牲に対する考え方の根本的な違いという要素の方がより大きかったのではないかと自分は思う。

 かくの如く、ソ連赤軍は、膨大な死傷者の山を築きながらライヒスタークを目指したが、守るドイツ軍とて、腐っても欧州の武門の雄である。また、ナチスに味方し、もはや祖国に帰るべくもない外人部隊も、死力を尽くして赤軍に抵抗した。彼らを撃破し軍を進めることは、決して容易ではなかった。

 ライヒスタークのすぐ北を流れるシュプレー川も、ソ連赤軍の進軍を阻んだ。シュプレー川は、川幅200メートルにも及ぶ、天然の堀であり、そこにかかる橋はドイツ軍によって破壊されていた。

 ドイツ軍は、そのシュプレー川を越えてソ連赤軍が進軍してくることは容易でないと考えていた。崇高なるアーリア人たちは知らなかったかもしれない。しかし、ロシア史を紐解けば、彼らの祖先の一部が、ヴァリャーグ、すなわち北欧のヴァイキングであったという事実に行きつく。ヴァリャーグは、あの独特の底の浅い形状の船で北海やバルト海を押し渡り、それらの海にそそぐ川を遡上し、川がなくなると、船を担いで陸を進み、ロシア平原の南を流れるドニエプル川を下って黒海にまで出て、遂にはギリシャの地まで至る交易路を開いた。

 ソ連赤軍は、彼らの文明の祖たちがやったのと同じことを、このベルリンの地で敢行した。ソ連赤軍は、ドニエプル河川部隊の輸送船団を陸送でシュプレー川下ろし、ピストン輸送で大量の兵と重砲を南岸に運び、あっという間に橋頭保を築いてしまったのである。

 戦闘は、ライヒスタークの前の大きな広場を取り巻く一帯の攻防戦となった。ドイツ軍はその広場を取り囲む建物に狙撃陣地を築き、攻め寄せてくる赤軍兵に銃弾の雨を降らせたため、ソ連赤軍は、膨大な兵士の命をつぎ込んで、そうした狙撃陣地を一つづつ陥落させていかねばならなかった。ライヒスタークへの突入は、未だ容易ではない。

 しかしスターリンは、そのミッションを5月1日までに必ず成し遂げよとの指令を前線に下した。モスクワでのメーデーの祭典で、祖国と人民の勝利を盛大に祝うためである。そのためには、どれだけの人命を投じても構わない。いまさら言うまでもなかろう。赤軍にとっての前線兵士の人命は、敵陣に撃ち込まれる砲弾とほぼ同等の消耗資源だったかもしれない。

 4月30日18時、遂にソ連赤軍は、ライヒスターク内への突撃を敢行した。中には、1000人に上るドイツ兵が立てこもっており、正面ゲートを破って進軍してきた赤軍兵に、ホールを取り巻く上層階の回廊から一斉射撃を加えた。それでも赤軍は、仲間の屍を乗り越えて続々とライヒスターク内に殺到し、建物の各階で独ソ両軍入り乱れての壮絶な白兵戦が展開された。

 同日夜半前、遂にソ連赤軍兵士の一部が、ライヒスタークの屋上に上り、このために用意した赤軍旗が、そこに掲げられた。

 見るがいい。この戦いで死んでいった無数の同志たちよ。凍てつくレニングラードで餓死した百万もの市民たちよ。愛する者を失い、哀しみの涙に浸る全ての人民よ。遂に、遂に、我らロシアが、悪魔ともいうべきナチズムの中枢を打ち砕いたのだ。

 ライヒスタークに赤軍旗が掲げられてからも、建物内の残存ドイツ軍の抵抗は続いたが、5月2日には、ドイツが無条件降伏を受け入れたため、全ての戦闘が終了した。

 ソ連赤軍の手中に落ちたライヒスタークには、膨大な数の赤軍兵が押し寄せ、一帯は興奮の坩堝(るつぼ)と化した。若者たちはみな、俺はどこの地方の出身であると次々に雄たけびを上げ、ある者は建物の壁に炭で自らの名前を書き、ある者はアコーディオンで故郷の音楽を奏で、またある者は、激しいステップでスラブの喜びの踊りを踊った。勝ったのだ。遂に俺たちは、勝者となったのだ。

 このライヒスタークの闘いの最後として撮られたのが、第二次世界大戦の最も有名な報道写真の一つである“ライヒスタークの赤旗”である。実際に赤軍旗が掲げられたのは夜半であり、この写真は、演出として後日撮りなおされたものらしい。また、誰がこの偉業を成し遂げたかのストーリー作りに、ソ連プロパガンダのお家芸とも言うべき演出があったとの説もある。しかしそれは、どうでも良いことであろう。ライヒスタークに赤軍旗が掲げられたこの一枚の絵によって、独ソ戦という、この余りにも壮絶にして壮大な物語が、遂に、完結の時を迎えたのである。

 ちなみに、第二次大戦の報道写真として、この“ライヒスタークの赤旗”と双璧を成すものが、“硫黄島の星条旗”である。いずれも、長きに渡る、死力を尽くした闘いの果てで、ぎりぎりの勝利を掴んだのだという連合国側の辛勝の思いが感じられる。これらの写真が、当時の連合国の多くの人に深い感慨を与えたということは、彼らが、ドイツ、そして日本を倒すことに、今日我々が思っている以上に手を焼いたということなのかもしれない。

 事実、もはや敗戦が確実となったゼーロウ高地での戦闘以降も、ドイツ軍は死力を尽くして戦った。ベルリンの闘いでのドイツ軍の死傷者は40万近く。別途、13万を超える兵が、捕虜となりシベリアに送られてた。そして、攻めるソ連赤軍側も、敵軍の帝都陥落の代償として、8万を超える人命を投じている。

 長い戦いだった。1941年6月22日の夏至の日に始まった独ソ戦/大祖国戦争の、4年10か月に及ぶ戦闘が、漸く終わりを告げたのである。

<21>

 邦題で「ベルリン陥落」と名乗る映画が、自分が知る限り2つある。一つは、既にこの稿でも触れた1949年作の有名なソ連のプロパガンダ映画で、もう一つは2008年になって作成されたドイツとポーランドの合作による映画である。後者には、「ベルリン陥落1945」という邦題が付けられているが、原題は“ Anonyma – Eine Frau in Berlin(匿名 あるベルリンの女性)”というもので、こちらの方がこの映画の主題をより的確に表している。

 自分は、独ソ戦ルポを書くにあたり、この戦争に関連する随分たくさんの映画や映像を見たが、この映画ほど、見ていて辛い作品はなかった。正直、耐えきれなくて何度も映像を止め、随分長い時間をかけて、漸く最後まで見ることが出来た。この映画では、人はあまり死なない。そこに描かれているのは、これでもかというほどの生き地獄と、負けたドイツ、勝ったロシア双方の人々の、心の葛藤である。

 この物語は、ベルリン出身のあるドイツ人女性の手記を元に作られたものである。彼女は、特派員として、パリ、ロンドン、モスクワにいたこともあるジャーナリストで、大戦末期のベルリンに戻ってきて、“一人の女性”として、ソ連赤軍に占領された直後の惨劇を経験し、それを手記に残した。彼女は美しく、そして、聡明だった。彼女は、目の前で起こる全ての事、我が身に降りかかる全ての事から目を離さず、それを克明に記録することを決意する。

 1945年4月末。ライヒスタークを目指し、ソ連赤軍の決死の侵攻を進める中、既にソ連側の手に落ちたベルリンの街区では、ソ連赤軍の兵士たちによる略奪と強姦が横行した。

 ソ連赤軍の制圧地域には、もう弾は飛んでこないし、ゲシュタポから尋問を受けることもない。この、過酷を極めたベルリン市街戦を、辛くも生き延びたベルリン市民。多くは女性だった。彼女たちを待ち受けていたのは、目の前の今日一日をどうやって生き延びるか、年老いた両親や子供たちの命を、どうやって繋いで行くかであった。女性たちは、壊れかけたバケツを携え、瓦礫の通りを抜けて、家族のために水を汲みに行った。通りは、つい昨日まで、戦場で闘い続けていた血の気の多い赤軍兵たちで溢れていた。

 ロシアの男たちは、ギラギラした目でドイツ人の女たちを根目まわし、その多くが、彼女たちを物陰に引きずり込んで強姦した。ソ連赤軍の上層部も、終戦直後は、その行為を制止しなかった。赤軍の兵士たちは、辺り一帯の民家に押し入っては、女性がいると見れば引きずり出し強姦した。女性たちは、何人もの赤軍兵から、入れ代わり立ち代わり、何度も、幾日も辱めを受けた。

 抵抗すれば暴行され、服は破れ、顔や体はあざだらけになった。どんなに抗っても、屈強な赤軍兵の行為を制しきることは出来ず、ひたすらになぶり者にされ続けた。このような接敵被害を受けた女性は、10万にも及んだという。抵抗し殺されたもの、自ら死を選んだもの、性病に犯されたもの・・・・。そして、被害に遭った全ての女性に、一生消えない心の傷が残った。

 ベルリンで生き残った数少ないドイツの男たちも、目の前で、そのような屈辱的な光景を見せつけられた。そんなものを目の当たりにして平静でいられる男はいないであろう。多くが赤軍兵のそうした蛮行に抵抗したが、結果は火を見るより明らかで、赤軍兵たちに取り囲まれ袋叩きにあうぐらいであればまだましであり、殺されるものも多くあった。

 この映画の主人公の彼女もまた、屈辱的な憂き目に遭ったが、それでも、生きることだけは絶対に諦めないと覚悟を決める。貞操を犯されることがどのみち避けられないのだとすれば、その状況を少しでもましなものするため、より位が高く教養もある将校の女になり、その庇護にあずかるしかないとの思いに至る。自分が選ぶのだ。もう二度と、強姦はさせない。その女性は、冷たい、鉄のような決意を持ってそれを行動に移していく。彼女は、特派員でモスクワにもいたことがあり、ロシア語が話せた。

 赤軍兵や将校たちは、夜になると、酒や食べ物を携えてベルリン市民の家庭に押しかけ、女たちに、一緒に飲もうではないかと迫った。野卑で暴力的なものも多数いたが、その行為は、時に極めて無邪気で、“友好的”ですらあった。彼らは、自らの戦場での功績について屈託なく自慢し合い、それぞれの故郷と家族について、懐かしげに話した。

 彼らが一定の品行を守る限りは、受け入れる側にも利がないわけではなかった。ドイツという国家は既に崩壊し、自分たちを守ってくれるものは何もなかった。それは、国防、治安のみならず、今日を生き抜く糧を、もはやパン一切れたりとも、国家は与えてくれないということである。一方の赤軍兵や将校たちは、まるでお呼ばれに行くかのように、彼らが調達できるものの中でも恐らく最高の食料を携えて、いそいそとやってきた。

 彼ら赤軍兵や将校は、今こことで生きていることがむしろ不思議なくらいの過酷な戦場で、もう何年も闘ってきた男達であった。故郷には、元々、愛する家族と家庭があった。この戦争がなければ、ずっとその地で家族と共に、ささやかながらも幸せな生活を送っていたであろう。

 その懐かしい故郷から遠く離され、戦場の固い土の上で寝起きし、汗と血と埃と死にまみれた修羅の世界で戦いに明け暮れて既に数年。戦闘が終わり、辛くも生き延びて任務を果たした今、もし許されるのなら、すぐにでも故郷の地に飛んで帰って、温かな家族との団らんに憩い、愛する者たちの柔らかな肌に触れたかったであろう。“Я домой, хочу(ヤー・ダモイ、ハチュー)”。家に帰りたい。

 しかしベルリンは、故国ロシアから遥か遠い異国にあり、復員の手筈が整い、鉄道を乗り継いで、故郷の地を踏めるのは、遥かに先の話しである。なんとかそこまで辿り着くためにも、今この一瞬、今日まで生き延びたことの証として、何か形のある温もりをこの手で確かめたい・・・。男として、その気持ちは、自分も身に染みるようにわかる。

 一方で、自分の家に見ず知らずの男たちが上がり込み、場合によっては自分の妻や娘が凌辱されるかもしれないドイツの男たちの立場に自分が置かれることを想像した時、血が逆流するほどの憤りを感じる。男たちは皆、もしそんな状況を目の当たりにでもすることになれば、何を凶器として使ってでも、その非道な蛮族に襲い掛かり、妻子を守ろうとするであろう。そうやって命を落とす男たちは、このベルリンでも幾らでもいた。でも、そのようなことをしても結局、彼らは、妻や娘を守ることは出来なかった。戦争に負けるとは、そういうことなのである。

 そうした諸々の全てを思う時、自分は、本当にたまらない気持ちになる。戦争で人が死ぬのは悲惨なことであるが、生き残った人々が味わう地獄もまた、戦争の悲惨さの極みであり、我々は、こうした事実に目を背けるべきではないと、本当に、強く思うのである。

 この映画の前半、いよいよソ連赤軍がベルリン市街へ侵攻してくると人々が戦々恐々している段階で、あるドイツ人将校の言葉として、こんな表現が出てくる。

「我々は、散々悪いことをしてきたからね・・・・。」

 また、主人公の女性は、若い赤軍兵に、彼が自分の村で目の当たりにした惨劇を、彼らが占拠するアパートに住むドイツ人の母に、彼女の小さい子供たちがいる前で、ドイツ語に訳して話すよう強要される。自分の村に侵攻してきたドイツ兵たちは、村の子供たちをみんな殺したのだ。一部の子供たちは、足を持たれて壁に叩きつけられ、頭を砕かれて死んだ・・・。

 そう・・・ベルリンで起こった悲劇は、自分たちドイツ人が、ロシアの大地で加害者として行ったことの再現なのである。彼らドイツ人たちの心を切り裂いた最大の苦しみは、今目の前で繰り広げられている受け入れがたい事実を作った、そもそもの原因と責任が、自分たちにあったということである。ドイツの人々は、自らが敗者となることでその罪と向き合わされ、以後、その苦しみとずっと背負い続けて生きている。恐らく21世紀の今日においても・・・。

 Wikipediaには、この映画の元となった手記は、戦後アメリカで出版され、やがてそのドイツ語翻訳版が当時の西ドイツでも出版されるが、様々な批判を浴びたとある。余りにも生々しい現実であり、そうした事実の開示を国辱だと非難する向きもあったかもしれない。

 しかし、こうした事実こそ後世に伝えられるべきであると考えた人々もいたのであろう。この本は、21世紀になって再び著者を匿名として再出版され、その内容に基づいた映画も作られた。外国人である自分ですら眼をそむけたくなるような、これほどまでに悲惨な現実と向き合い、それを映像にしたドイツの人々の覚悟に、自分は、ある種の怖さにちかい深い畏敬の念を感じる。確かに我々は、ドイツの人々にもっと学ぶべきなのかもしれない。

 今回、このベルリン陥落のルポを書いていて強く思ったことが二つある。一つ目は、過ちを繰り返さないためには、その過ちが如何に悲惨なものであったかを、出来得る限りリアルに“疑似体験”する必要があり、可能な限り国民単位でそれを行う必要がある、ということである。

 もう一つ思うのは、生身の人間としての敵の顔が見える地上戦の悲惨さである。生身の人間が、自分たちを殺しに来る恐怖。彼らの手によって、自分の親が、子供たちが殺されるシーンを目の当たりにするトラウマ。そして、昨日まで目の前で自分たちに銃口を向けていた敵が、自分たちの生活の場にそのまま居座る現実・・・。

 自分は、ベルリン市街戦についてのこの章を書きながら、ずっと、我が国の戦争のことを、より具体的には、沖縄本土戦のことを考えていた。自分は、そこで起こった事実を、殆ど何も知らない。沖縄では、ここで書いたような凌辱行為はなかったかもしれない。自分が言いたいのはそこではなく、“体験の非対称性”とも言うべき点である。

 例えば、広島・長崎の原爆について、東京や神戸の大空襲について、凄惨を極めた満州からの引き揚げについて、小説やドラマ、漫画やアニメ映画等で、我々日本人は、その悲惨だった事実について、世代を超えた国民レベルで、一定程度の疑似体験が出来ているのではないかと思う。

 これで足りているとは当然思っていない。しかし上記との対比においても、沖縄本土戦について我々は、余りにも無知で、余りにも共感に乏しすぎるのではないだろうか。

 我々は、かの大戦について、もっとしっかりと向き合わねばならない。近隣諸国との真摯な対話も必要であろう。でもそのテーマよりずっと手前の問題として、まずは沖縄本土戦について、その悲惨さを、より深く、全国民的に体感する必要があるのではないか。

 自分は未だ、沖縄の地に足を踏み入れたことがない。いずれ行くことになるであろう。そして、そこで何が起こったか、何故そんなことになったのかというテーマに対して、真っ向から挑むことになると思う。そもそも、そのための準備として、この独ソ戦ルポを書き始めたのだ。

 まずは、ドイツとロシアのこの戦争で命を落とした人々、そして、心を切り裂かれた両国の人々に、深い追悼の意を表したい。その次に自分が向き合うべきは、我が国の戦争において、何が起こり、誰をどのように苦しめ、誰がどのように苦しんだかである。自分は今、そのテーマの深刻さに、改めて、深い戦慄を感じている。

<22>

 ヒトラーは、自らの命を絶った後の総統としての権限を大統領と首相の職に二分し、前者を海軍元帥デーニッツに、後者を宣伝相ゲッペルスに託すとの遺言を残した。

 この戦争の幕引きを巡り、ドイツと東西連合国の間には、幾つかの駆け引きがあった。まず、条件付降伏か、無条件降伏かという問題である。ドイツ側は当然条件付降伏を志向し、敗戦を認めても、何らかの形でドイツの主権と国体が維持されることを画策したが、連合国の方は、ソ連、英米仏ともに、無条件降伏しかありえないという点で一致していた。

 ヒトラーが自決したのは4月30日の15時過ぎ。それから半日経った5月1日の未明に、ゲッペルスらの命を受けた陸軍大将クレープスがソ連赤軍司令官チェイコフの元を訪れ、和平交渉に臨んだ。クレープスは、この席で、ヒトラーの自殺について告げ、新内閣の組閣概要を説明し、それが稼働するまでの停戦を求めたが、チェイコフからは、無条件降伏しかありえないと却下された。

 連合国がドイツに突き付けた無条件降伏とは、敗戦国であるドイツに主権の存続を認めないというものであり、戦後処理だけではなく、その後の統治をどうするかについても、全て連合国側が決めるという、極めて過酷なものであった。

 クレープスは、停戦交渉の全権を委任されていたが、無条件降伏の受け入れはその範疇を超えていたため、総統官邸にいる首相のゲッペルスと電話で連絡を取り合いながらソ連側との交渉を行った。ゲッペルスは無条件降伏を頑として受け入れず、半日に及ぶこの交渉は決裂した。憔悴しきったクレープスは、総統地下壕に戻った後、拳銃自殺を遂げている。

 ベルリン市街中心地での戦闘は未だ継続中である。大統領職のデーニッツはベルリンを脱出し、北部のフレンスブルクという街で政権を樹立したが、ゲッペルスは自らの意志で総統地下壕に留まっていた。ソ連赤軍はすぐ手前まで迫っており、地上の総統官邸の陥落は時間の問題であった。ゲッペルスは、もはやここまでとの思いに至り、5月1日のうちに妻と共に拳銃自殺し、ヒトラーがそうしたのと同じように、遺体にガソリンをかけて焼かせた。

 ゲッペルス夫妻には6人の子供がいたが、夫妻は、この子供たちを総統地下壕に連れてきて、そこに住まわせていた。子供たちは、ヒトラーのことを「アディおじさん」と呼んで親しみ、ヒトラーも子供たちを可愛がっていたという。ゲッペルスの妻は、自身の自殺に先立ち、用意したシアン化合物で、子供たちを先に天国へ送っている。

 この時期のドイツが連合国との間で行っていた駆け引きのもう一つは、全体降伏か部分降伏かという問題である。全体降伏はドイツと英米仏ソの4か国の国家間でなされるが、その際、ドイツを敗戦させた最大の功労者であるソ連が、応分のドイツ領土とドイツ兵捕虜を、自らの取り分として要求してくることは自明であった。ドイツからすれば、どのような扱いをしてくるかわからないソ連によって接収される領土と兵員は出来るだけ少ないほうが良い。これは、切実な問題であった。しかし、戦闘がまだ完全に終結していないこのタイミングで各軍団が個別に投降すれば、その軍の兵は投降先の捕虜となる。このため、ドイツ軍幹部は、少しでも多くの部隊を西側に移動させ、英米軍に個別に投降させるよう指示を出し、そのための時間稼ぎをしようとした。

 ドイツ軍部は、各地の交戦地域では上記方針を継続したが、ことベルリンに関していえば、その時間稼ぎにも限界があった。5月2日には、遂にソ連赤軍による総統官邸への突入が敢行され、守るドイツ側の弾薬も尽きつつあったのである。

 5月2日の朝、今度はベルリン防衛軍司令官のヴァイトリングがチェイコフの元を訪れて無条件降伏に応じる旨を申し入れ、停戦が合意された。ヴァイトリングはまた、未だベルリンで闘い続けているドイツ兵に戦闘の中止を命じ、ソ連赤軍への投降を呼びかけることについてもソ連側と合意し、その声明文を自ら読み上げ、ソ連赤軍によってテープに録音された。

 ベルリンで闘い続けるドイツ軍兵士とベルリン市民は、市街を巡回する軍用車の拡声器から発せられるこのヴァイトリングの声明によって、ドイツの敗戦を知らされることとなったのである。“Achtung…achtung…(アハトゥング、アハトゥング・・・)”、英語でいうところの”Attention…attention…”で始まるこの降伏勧告は、ベルリン市街戦を扱った多くの映画でも、非常に重要なシーンとして登場する。

“Achtung…achtung…/貴君ら兵士に告ぐ。1945年4月30日、総統閣下は、国民たちの忠誠を見捨て、自らの命を絶たれた。貴君らは、総統の命に従い闘い続けてきたが、もはや弾薬も尽き、これ以上の抵抗は無意味である。私は、貴君らに、即時停戦を命じる。貴君らが闘い続けることは、ベルリンの市民と負傷兵の苦しみを、長引かせるのみである。これは、ソ連軍総司令官と合意した結果である。私は、ここに命令する。即時戦闘を停止せよ。

ヴァイトリング、ベルリン区 前防衛司令官。”

 “Achtung…achtung…”その音は、遠いこだまのように、敗戦の街に響き渡った。多くの兵士や国民にとって、それは、世界の根底の崩壊を意味した。全てを投げうって信じた価値観が無と帰してしまった事実を、どう受け止めればよいのか。今更、どうやって生きて行けというのか・・・。多くの兵士が、この勧告を耳にした直後に、自らのこめかみに銃口をあて、自決を遂げた。
“総統閣下は、国民たちの忠誠を見捨て、自らの命を絶った。”

 衝撃の事実であった。しかし、自らを助けることも出来なかった彼が、国民を庇護することなど、もとより出来ようもなかったことかもしれない。

 ヒトラーは、この世界に対する極めて個人的な恨みと憎しみに、どっぷりと浸かりきった男だった。それがいつしか、その負のエネルギーを周りに対してぶちまけるようになり、やがてそこに、彼の周りに存在した同じような負の情念が吸い集められ、徐々に大きな渦となって遂には国家全体を巻き込み、さらには国境線からも溢れ出して欧州中を戦争の惨禍に巻き込んでいったのである。

 総統の地位にあってもなお、ヒトラーその人は、深く傷ついた、極めて弱い人間であったように自分は感じる。その尋常ならぬ弱さ故、あれ程までの魔力を発揮したと言えるかもしれない。

 ヒトラーの心の闇について考える時、自分は、“パスカルの原理”を連想する。物理学の理論である“パスカルの原理”が、一個の人間の精神/心にも当てはまるのではないか。

 パスカルの原理とは、密閉された容器の中にある流体のある一点に外からの圧力を加えた時、それと同じ力で流体全体を外に押し戻そうとする力が発生する原理のことである。この原理を利用した油圧ポンプを使えば、ダンプトラックの重い荷台を持ち上げることも、油圧ショベルで硬い地面を掘り起こすことも可能となり、その圧倒的な力を、何かの破壊のために用いることも出来る。

 それを、一個の人間の精神に当てはめるとはどういうことか。ある人物が、本人には到底受け入れがたい、肉体的、または精神的な暴力を受け、自我を深く傷つけられてしまった場合、その者が、周りには想像も出来ないような反社会的行為に及ぶことがある。

 一人の人間にとって、自我という内的世界は、いわば“密閉された容器の中にある流体”であって、その人物を取り巻く外的世界と均等なものであり、自らの内的世界を深く傷つけられたものが、そこで起こったことと同様の惨劇を、外的世界に対する復讐として再現して見せることがある。それは、作用・反作用の法則でもある。そういう“力学”が、人の心にも当てはまると、考えることは出来ないだろうか。

 さらに自分は、同じような力学が、ヒトラー個人だけではなく、当時のドイツ国民全体に対しても働いたのではないかと思うのである。

 上記は自分の仮説である。確かなことは、欧州史上、類を見ないこの悲惨な戦争が、ヒトラーとナチス第三帝国によって引き起こされ、ソ連赤軍によるベルリンの陥落をもって、終焉の時を迎えたという事実である。

 1945年5月2日、ドイツ無条件降伏。ドイツと英米仏との開戦から4年8か月、対ソ連の開戦から3年10か月に及んだ戦争が終結した。悲惨を極めた東部戦線/独ソ戦でのドイツ側の死者は、兵、民間人計で1000万を超え、ソ連側は2000万を超えたと言われている。

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 ソ連赤軍とドイツ軍がゼーロウ高地で死闘を繰り広げていた頃、守るドイツ第9軍の指揮官ブッセが、「我々の任務は、米軍戦車に背中を撃たれるまで持ちこたえることだ。」と語ったということを、以前書いた。また、降伏直前のドイツ軍司令部が、各地に展開する部隊を出来るだけ西に移動させ、英米軍に投降するよう画策していたことも、前項で書いた。

 連合国による対ドイツ戦の最終局面において、米軍は、ベルリンの南東約100kmの地域を流れるエルベ川の南東岸まで進出していた。捕虜になった後のドイツ軍兵士の、米ソによる扱い方の違いは、自明であった。ベルリン市内に生き残った市民と残存兵、そして、ベルリン郊外に展開していたドイツ軍の兵士たちは、生き残るための最後の可能性への賭けとして、その米軍の占領地を目指し、目の前に立ちはだかるソ連赤軍の部隊を突破せんとする決死の脱出劇を試みたのである。

 この戦争が終わった後、ドイツは西と東に分断され、東ドイツと東ベルリンはソ連の、西ドイツと西ベルリンは米英仏の勢力下に置かれたが、分断都市となったベルリンでは、東側から西側に脱出しようとする者が続出した。ドイツ降伏直前の西側への脱出劇は、そうした自由への渇望の原点とでも言うべき光景だったのかもしれない。その壮絶なる実態を、ベルリン陥落の章を書き終える前に、ここに記しておきたい。

 4月半ばのゼーロウ高地での戦いまでは、守るドイツ側は、現在のドイツ・ポーランドの国境に近いオーデル川を盾にした南北に長い防衛線を形成していたが、これが破られると、ソ連赤軍が雪崩を打って西へと進軍し、あっという間にベルリンを包囲してしまった。その後の顛末は、既に書いた通りである。

 対ソ連赤軍の盾として、ゼーロウ高地を守っていた第9軍は、防衛線を破られた後、ベルリン市街へと撤退する途上でソ連赤軍に包囲されてしまった。場所は、ベルリン包囲網外の南東部、ハルベ近郊の森林地帯である。包囲された兵の数は約8万。この地にとどまる限りは、圧倒的な火力と兵力で包囲網を縮めてくるソ連軍との戦闘で大半が戦死し、生き残った者は捕虜となってシベリアに送られることが自明であった。

 ベルリン包囲網外で、まとまった戦力を有していたドイツ軍のもう一つの勢力が、第12軍である。指揮官ヴェルター・ヴェンクが率いる第12軍は、エルベ川の東北岸で、川向こうの米軍と対峙していた。

 ヒトラーは、この第9軍と第12軍に対し、ベルリンの救出に向かうよう何度も指令を出したが、第9軍のブッセも、第12軍のヴェンクも、その指令に表立って反抗こそしなかったものの、積極的に応じる姿勢も示さず、ヒトラーを激怒させた。ベルリンは、既に、圧倒的な兵力のソ連赤軍に完全に包囲されており、兵員の数も装備も限られている第9軍、12軍がそれを突破してベルリン市街地まで辿り着くことは、現実問題として不可能であったし、それ以上に、そのような戦闘に、若い兵士の命を投じることは、もはや無意味であった。

 ソ連赤軍との戦闘は、いずれにせよ免れようがない。自軍の兵士の殆どは戦死するであろう。しかし、どうせ命を懸けて戦うのであれば、狂気の果てに息絶えんとしている第三帝国のためではなく、一人でも多くの兵と市民の命を、これからのドイツのために、未来へと送り届けるために戦うべきなのだ。ブッセとヴェンクの腹は、最初からそう決まっていた。

 ヴェンクとブッセは、表向きはベルリン救出に向かうためという体面を保ちながら、第9軍を第12軍に合流させ、かつ、第12軍に北進させることでベルリンからの脱出口を開かせしめ、少しでも多くのドイツの若い兵士と民間人を、西側に投稿させる作戦を開始したのである。

 喫緊の課題は、第9軍を西進させ、第12軍と合流させることであったが、その作戦は困難を極めた。ソ連赤軍は、ハルベで包囲した第9軍に、空からの執拗な空爆とともに、地上軍からも、その圧倒的な火力をもって、容赦ない砲撃を加えた。

 ハルベ近郊は深い杉の林である。森林に展開するドイツ兵の頭上は、高い杉の木で囲まれている。ソ連赤軍は、この杉の木を目掛けて砲弾を打ちかけたのである。被弾した杉の木は粉みじんになって、その尖った木片が一帯に雨のように降り注ぎ、地上のドイツ兵の全身に突き刺さった。その死に方は悲惨を極めたという。付近には、一思いに死にきれず、流血しながらのたうち回るドイツ兵で溢れた。

 第9軍の軍としての指揮命令系統は既に破綻しており、各部隊は、お互いがどこにいるかもわからない大混乱の状態で、各個に西を目指し激闘を続けた。第9軍が西へ落ち延びようとしていることは、既にソ連赤軍に察知され、主要な幹線道は彼らによって抑えられていたが、一部の部隊が、なんとか脱出に使えそうな林道を見つけた。兵士たちは、もう何日も闘い続け、疲労困憊の状況にあったが、最後の力を振り絞って、その林道を西へと進軍したのである。

 途中、多くの兵士が、ソ連赤軍の攻撃で負傷したが、部隊には、彼らを介助する余裕など全くなかった。林道は、戦死した兵士の遺体と、苦しみのたうつ負傷兵で溢れた。

 第9軍は、残された数少ない重戦車を使って前方のソ連赤軍に打撃を加えながら進軍したが、進撃する戦車は、林道に溢れた自軍の兵士の遺体や、さらにはもがき苦しむ負傷兵をも踏み潰していかざるを得なかったという。林道は、ソ連赤軍の砲撃で破損し動けなくなった車両や、ガソリンがなくなって動けなくなった車両でも埋め尽くされ、付近は地獄絵の様相を呈した。

 第9軍の西への決死の脱出劇を地図上に形に表してみれば、一体のアメーバのような形をしていたに違いない。ハルベの森でソ連赤軍によって包囲され丸い形をしていたその生き物は、周囲からの攻撃に身もだえし、徐々に小さくなりながらも、やがて、何かを捕食しようとするかのように、消え入るような細長い触手を、西へ向かって伸ばしつつあった。

 その触手の部分に当たるのは、林道を西へと突き進むドイツ兵たちである。武器弾薬、燃料、食料、体力・・・・全てが決定的に欠如していた彼らに残されたのは、気力だけだったであろう。しかし、彼らの一部は、その気力だけを糧に、5月2日になって、遂に第12軍との合流を果たすことに成功したのである。

 この間、第12軍は、ベルリンから逃れてくる同胞と市民を迎えるべく、決死の北進を続け、途中のポツダムで力尽きたものの、何とかベルリン撤退軍の一部と合流することに成功していた。第9軍の残存兵も確保も見届けた第12軍の司令官ヴェンクは、生き残った者たちの一人でも多くを、エルベ川の対岸に渡河させるべく、エルベ川の対岸のシュタンデールという街にあった米軍の司令部に使節団を送り、投降のための折衝を開始した。

 その間も、ソ連赤軍は、エルベ川の東北岸に追い詰められたドイツ軍に容赦ない猛追を加えてくる。ヴェンクの軍は、エルベ川を背後に、ソ連赤軍の攻撃に何とか持ちこたえながら、出来る限り時間を稼ごうとした。

 米軍側の司令官は、同盟軍であるソ連赤軍への配慮から、初めはドイツ兵の投降に難色を示したが、なんとか話しが纏まり、ドイツ兵たちの渡河が始まった。ヴェンクは、辛酸を舐めた第9軍の残存兵から優先的に渡河をさせたという。

 渡河の中心となったのは、タンガミュンデ橋である。米軍の進撃を阻むためにドイツ軍自身が破壊したのか、タンガミュンデ橋はあちこちが崩れ落ち、飴のようにねじ曲がった鉄道軌道でかろうじて繋がっている個所も多数あったが、橋の上は1万もの兵によって立錐の余地もない状態で埋め尽くされた。兵士たちは順番を待ち、橋が崩れ落ちた個所では、ねじ曲がったレールの上を、一人づつ綱渡りするように、西へと渡っていった。

 ソ連赤軍は、刻々と背後に迫りつつある。いつ来るともわからない自分の番を待ちきれず、付近の浮遊物を筏にして川を渡る者、さらには自力で泳いで渡ろうとする者もおり、溺死する者もいたという。

 迫りくるソ連赤軍に対抗していたヴェンクの軍も、遂に川岸まで追い詰められたが、エルベ河畔に達したソ連赤軍は、大量のドイツ兵が、川を渡って西側へ投稿しようとしている光景を目にして激しく憤った。それは、我々の“戦利品”なのだ。赤軍は、橋の上をぎっしりと埋め尽くしたドイツ兵目掛けて砲撃を加え、多くの兵士が命を落とした。

 遂に、西側への脱出もタイムリミットとなった。そのタイミングをもって、エルベ川を境に、見えない鉄のカーテンが下ろされ、兵たちの命運が、西と東で分断されたのである。

 以上が、残存ドイツ兵の西側への脱出劇の顛末である。エルベ川渡河も悲惨であったが、何よりも過酷であったのは、第9軍のハルベからの脱出であろう。この脱出途上で、6万の兵が戦死ししたという。同行して脱出しようとした1万の市民も、ここで命を落としている。攻めた赤軍の方の被害も甚大で、死者は2万に上った。

 この林道は、後に“死の林道”と呼ばれ、今でも、独ソ双方の兵の遺骨収集作業が続いている。遺骨を埋葬されたのは、まだ半数にも満たず、埋葬された英霊も、その殆どが、身元不明のままだという。誠にもって、壮絶という他ない。しかし、それだけの犠牲の上にではあるが、第9軍の、実に2万5千もの兵が、西側への脱出を果たしたということが、せめてもの救いかもしれない。

 Wikipediaのハルベの闘いの項は、アントニー・ビーヴァーの次の言葉をもって締めくくられている。

「驚くべきことは、戦死者や捕虜の大小ではなく、2万5千の将兵と、千もの市民が、ソ連赤軍のあの重厚な防衛線を突破して脱出したことである。」

 脱出途上で命を落とした兵士たちはさぞかし無念であったに違いない。しかし、彼らが、力の限り西へと進んで辛くも生き延びることが出来た仲間たちを、妬んだりするだろうか。

 自分には、それは、決してなかったのではないかという気がしている。俺たちは死を免れなかったが、俺たちの仲間が、我ら同胞の血を、少しでも多く、明日の世代へと繋いでくれたのだ。英霊となった彼らは、生き延びた彼らの仲間のその大いなる勝利に、天国から最大限の賛辞を送っているはずである。

 今日一日を生き延び、明日へ、未来へと、“種”としての命を繋いで行くこと。全ての生き物、生命にとって、この世に生を受け生きるということは、究極的にそういうことかもしれないと、この稿を書きながら、深く感じている。

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 世界を震撼させた欧州の大戦争は終わりを告げ、ドイツは敗北した。ベルリンでドイツ軍が抗戦をやめたのは5月2日であったが、その後、欧州各地の戦線で順次停戦がなされたことと並行して、どういう形でこの戦争を公式に終わらせるかについて、連合国とドイツの間での調整があったこともあり、ドイツの降伏文書が正式に署名・調印されたのは5月8日になってからであった。

 降伏文書には、ドイツ国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥、そして連合国を代表して、ソ連赤軍のゲオルギー・ジューコフ元帥と、米軍ドワイド・D・アイゼンハワー元帥の代わりに、英軍のアーサー・テッダー元帥が署名した。署名時間は、西ヨーロッパ夏時間の5月8日午後11時15分、モスクワ時間5月9日午前2時15分であたった。西欧の対独戦勝記念日が9月8日、旧ソ連圏の大祖国戦争戦勝記念日が5月9日となっているのはこのためである。

 1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に端を発し、5年半近くに渡り、欧州全域を地獄へと陥れた戦争は終わった。

 各国の抗戦の過酷さを測る一つの指標として、英米兵死傷1名に対し、自国の兵が何名死んだかという見方がある。英米兵死傷1名に対する日本兵の戦死は7名。これに対し、ドイツ兵は20名であるという。ドイツ軍は、ガダルカナルやインパールで悲惨な経験をしている日本軍の3倍近い比率の戦死者を出しているということであり、彼らにとってのこの戦争の過酷さが偲ばれる。

 しかし真に驚くべきはソ連兵の戦死者で、その数は85人にもなるという。一方で、この規模感には、ここまで稿を書き進めてきた自分としては、なるほどそうかもしれないと感じるところが大きい。

 ソ連側はまた、民間人でも膨大な数の戦死者を出している。ドイツ側から受けた攻撃がそれだけ過酷であったことの証でもあり、スターリンの恐怖政治によるところも大きいが、どれだけの人的代償を払ってでも祖国を守ろうとする、ロシアという国土独自の特性によるところが最も大きいのではないかと、自分は感じている。

 先にも書いた通り、この大戦でのソ連の死者は、兵士、民間人計でざっと2000万といわれているが、その正確な数を掴むことは不可能である。一つには、この戦争の前半期で、ソ連がナチス軍から国土の侵攻を受けた時の直接的な殺戮で死んだロシアの民間人以外にも、この戦争に関連し発生した飢餓等で亡くなった国民も多くおり、どこまでを戦争被害者とするかという問題がある。また、時のスターリン政権は、自らのふがいなさを隠すために、死者を少なめに公表する性向があった。彼自身は、ソ連の死者は700万人だと言っていたが、こんなに少ないはずはない。一方で、ソ連側の死者は2700万人に上ったとの説もあり、それは多すぎではないかとの評価もあるが、いずれにせよ2000万は下らないだろうというのが大勢の見方である。日本の死者が310万人、ドイツが690万人だったことと比べても、桁違いに大きい。

 ドイツの人的被害を西部戦線と東部戦線に分けてみた場合、兵士、民間人共に、東部戦線の被害者数の方が大きい。これに東西双方の交戦国の被害者数を足していくと、東部戦線の被害者数が西部戦線のそれを遥かに上回るものになるが、それは、両戦線の戦争としての性質が、全く異なるものだったことを意味している。

 西部戦線、すなわち、ドイツと英米仏の闘いは、いうなれば、国家間のパワーバランスの鬩ぎ合いの延長線上の話しである。近世以降のヨーロッパでは、列強国が合従連衡して域内戦争を行い、そこでつけた落とし前、別の言葉でいえば、各国の優劣・力関係についての一旦の合意の元に、国際社会が安定的に運営される状況がしばらく続き、その力関係が崩れた時に次の戦争が起こるという歴史を辿ってきた。

 その源流は、日本でいえば江戸時代初期に起こった三十年戦争(1618~48年)の後に締結されたウェストファリア体制にある。それから約150年の後、フランス革命が勃発して国民主権国家の萌芽があり、それがナポレオン戦争に発展して欧州全域に飛び火し、ウェストファリア体制は崩壊した。その後、ナポレオンが敗れたことにより、フランスと敵対した欧州列強が、各国で沸き起こりつつあった国民主権の動きを封じ込めるための保守反動的な国際協調体制、すなわちウイーン体制を1815年に確立した。

 時代は下って、第一次世界大戦後には、戦勝国である英仏が、敗戦国のドイツに“落とし前”を付けることを求め、新興国ドイツの力を徹底的に削ぐことを目的としたヴェルサイユ体制が敷かれたが、その体制下でのドイツへの賠償要求があまりに過酷過ぎたことが、ヒトラー政権の台頭と第二次世界大戦の勃発に繋がった。

 繰り返しになるが、第二次大戦の西部戦線は、そうした国際的なパワーゲームの延長線上にあり、語弊はあるが、いうなれば、双方、”ゲームのルール”に則った戦争であり、ヒトラーからすれば、適当なタイミングで講和することが前提の戦争だったということである。

 東部戦線は、それとは全く質を異にする。作家の大木毅氏は、この独ソ間の戦争が“絶滅戦争”であったと評しているが、まさにその言葉の通りであると自分も思う。

 その絶滅戦争を仕掛けたのは、そもそもドイツ側であった。第一次世界大戦の戦争責任を一手に押し付けられ、多額の賠償で経済もプライドも破綻してしまったドイツでは、ヒトラー政権が台頭した。彼の特徴的な政策は2つ。その1つが、諸悪の根源はユダヤ人にあるとし、その完全なる排斥・根絶が成されるべきというものであり、もう一つは、ドイツが本来の繁栄を勝ち取るためには、ポーランド、ウクライナ、ロシアといった地域を、“東方生存圏”として植民地化することが必須であるというものであった。

 そのいずれの政策においても、ヒトラーは、相手の民族、すなわち、ユダヤ人、ポーランド人、ウクライナ人、ロシア人のことを、人として認めていなかった。ナチス政権は、彼らを単なる労働力として家畜以下の扱いで死ぬまで酷使するか、労働にも適さず邪魔になるようであれば、処分殺戮すればよいという、極めて前近代的な思想を持ち、それを、軍事・行政的に執行した。

 その考えのもと、ドイツがソ連圏に侵攻して始まったのが独ソ戦である。開戦当初は、ドイツ側が圧倒的に優勢で、多数のロシア人が犠牲になり、スターリン政権は首都モスクワを包囲されるまでに至るが、膨大な数の人命を失っても執拗に抵抗を続けるロシア人によって、ドイツは次第に劣性になり、遂には首都ベルリンを攻め落とされ滅亡に至った。ロシア人にとって、この戦争は、正に“大祖国戦争”という名の通りのものであった。

 我々日本人が認識しておく必要があるのは、太平洋戦争末期のソ連による満州・樺太・千島侵攻も、ロシア人的視点から見れば、この“大祖国戦争”という絵面の一部であるという点である。彼らの視点から見れば、それが、愛国と正義の闘いだったという意味である。自分は、それが妥当であると言っているのではない。ロシア側にそういう歴史観が存在するという事実を共有しているに過ぎない。

 話しが横にそれた。いずれにせよ、ドイツは負けた。東西双方からの挟撃によって。
 上述のような独ソ戦の背景もある中、ナチス第三帝国を滅亡に追いやった“貢献度”を、ソ連対英米仏で捉えようとした場合、ソ連側の貢献の方が大きいことは明確である。感覚論であるが、その比率を数字で示すとすれば、自分的には、それは6:4ではなく、7:3に近いか、或いはそれ以上だったのではないかという印象を持っている。

 ナチス第三帝国が崩壊した今、これからのドイツをどうするかという問題がある。英米仏ソの戦勝国は、そのプランを描き行動する権利をドイツ人には与えず、“非ナチ化”が完了するまで、戦勝4か国の占領軍政府がそれを担うこととしたのである。

 この決定が、英米仏とソ連の対立、すなわち、冷戦の開始を意味したことは、言うまでもない。

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 ドイツを倒すその瞬間まで、ソ連と米英は、同盟軍として、後の冷戦時代からは想像もできないようなレベルで密接に連携していた。ソ連との連携に特に熱烈だったのは、アメリカのルーズベルト政権である。

 アメリカは、欧州戦線開戦当初は、国是であったモンロー主義(孤立主義)もあったため、戦争への直接介入は避けたが、1941年3月に成立したレンドリース法で、ドイツに対抗する勢力、特に、英国とソ連に莫大な量の物資支援を行った。ソ連に対する援助でいえば、航空機1.5万機、ジープ5.2万台、トラック37.6万台に加え、大量の食料や生活資材も供給している。

 アメリカが、欧州戦線で自ら軍を動かすきっかけとなったのは、1941年12月8日の日米開戦である。これに伴い、ヒトラーがアメリカに宣戦布告したことをきっかけに、アメリカは直接的に欧州戦線に介入し、以後、西部戦線における西側の主力となった。

 米英ソの3国間では、東西からの挟撃によりドイツを敗戦に追いやった後に、その国土をどう分割するかについても、戦争終結前に既に話し合っていた。3国の代表は、1944年9月に、ロンドンにおいて戦後のドイツ分割案を協議し、その内容をロンドン議定書(London Protocol)に纏め、これが、後の東西ドイツ、東西ベルリン分割の青写真となった。

 敗戦後のドイツの領土分割については、東西両陣営の間で建設的に話し合っていた一方で、戦後国際社会における各国のポジション確保、マウントの取り合いも、ドイツの敗戦が秒読みに近づくにつれ、徐々に顕在化しつつあった。

 この戦争に圧倒的な数の人命を投じ、既に、第三帝国を滅亡に追いやった最大の功労者という立場にあったソ連にとって、この局面において最も重要だったのは、ベルリン攻略の独占である。この稿でこれまでも触れてきた通り、ベルリン攻略は、ナチス第三帝国に母国を蹂躙されたロシア人にとって、他国には絶対に譲れない悲願の復讐劇であったし、戦後の国際社会におけるソ連のプレゼンスを高めるという意味でも、大きな投資価値があったであろう。

 一方のアメリカは、この戦争の過程でモンロー主義を捨て、英仏、そしてカナダをはじめとする“西側諸国”を率いる軍事的・政治的なリーダーとして一気に浮上し、イギリスを超える世界の覇権国家としてのプレゼンスを確固たるものにしたが、そのアメリカは、ベルリン攻略をどう捉えていたのか。結論から言うと、アメリカは、ベルリン攻略戦に自らは参画せず、それをソ連の専権事項とすることを認めるとの決断を下している。

 当初アメリカは、ベルギー側からドイツ本国に侵攻し、ライン川を越えてドイツ北西部のルール工業地帯を制圧しつつあったが、その後はベルリンを次の戦略目標とするつもりでいた。その方針が再考されたのは1945年3月のことである。きっかけは、ヒトラーが既にベルリンを脱出しているという情報であった。

 その情報は、連合国情報部から、欧州総司令官のアイゼンハワー元帥の元に届けられた。ナチス第三帝国が、アルプス山中の地下に密かに大要塞を作っており、ヒトラーが武装親衛隊を率いてそこに逃れ、チェコのボヘミア方面に展開していた中央軍の残存兵と、民間人の顔をしてドイツ各地に潜むゲリラ勢力“ヴェアヴォルフ/人狼”も使って、徹底抗戦をしかけてくるとの情報である。

 アイゼンハワーは、この情報を、本国の総参謀長に報告し、指示を仰いだ後、米軍の進軍先をベルリンからアルプス国家要塞に変更することを決定し、その方針を、ソ連とイギリスに同時に通告した。

 当然のこととして、スターリンは、この決定を歓迎した。実際には、当時のナチス第三帝国にはアルプス山中に巨大な地下要塞を築く余力など全くなく、ヒトラーもベルリンに留まったままであり、上記は全くのガセネタであった。

 一方のイギリスは、これまた当然のことかもしれないが、アイゼンハワーの決定を聞いて激怒した。モントゴメリー元帥はもちろん、チャーチル首相も、この期に及んでのアメリカの変節に激怒し、またこれほど大事なことをイギリスに相談せずに決め、ソ連に通達してしまったことに激しく憤った。

 チャーチルは、ベルリン攻略の手柄を全てソ連に与えることは、戦後の国際社会における彼らの増長という観点で、西側として度し難い禍根に繋がる話しであるとアイゼンハワーを責め、さらにはルーズベルトに親電も送って抗議したが、アメリカの方針が変わることはなかった。

 果たしてアメリカは、アルプス国家要塞というガセネタのみを鵜吞みにし、スターリンにまんまと騙される形でベルリン攻略を放棄したのだろうか?自分には、そうとは考えにくい。

 アメリカがベルリン攻略を回避したことには、幾つかの判断要素があった。その第一には、玉砕覚悟で抵抗してくるドイツ軍と交戦することの代償の大きさがあり、第二には、友軍であるソ連軍との同士討ちの危険性があった。前者についてはより深刻で、ベルリン攻略だけで10万の米兵が死傷することが想定された。実際、それぐらいの損失は、覚悟する必要があったであろう。

 母国を直接的に蹂躙され、全国民を上げて辛酸を舐めつくしたソ連と、パールハーバーは別としても、自国が直接的な戦争危険にさらされることがほぼなかったアメリカとでは、ナチス打倒のために投じる若い命の意義についての認識は、違って当然だったかもしれない。

 友軍ソ連との同士討ちという点については、ベルリン市街でソ連赤軍と入り乱れてドイツと交戦する中で発生しうる同士討ちという軍事的なリスクもさることながら、国際社会における“政治的同士討ち”とでも呼ぶべき事態の回避という意味の方が遥かに大きかったのではないかと思われる。

 何故当時のアメリカはそこまでソ連に気を使ったのか。その理由の一つとして、当時のアメリカが、日本を倒すためにソ連の対日参戦が不可欠であると考え、それを熱望していたことがある。アメリカは、ソ連の不興を買いたくなかった。この点は、日本は、大国アメリカに負けるべくして負けたとの認識の強い戦後の日本人には(実際そうであるが)、意外に受け止められるかもしれない。

 なお、当時のルーズベルト政権は殊のほかソ連に近しく、政権中枢には驚くべき数のソ連のスパイがいたとの説もあるが、その詳細を紐解くことは本稿の目的を超える話しなので、これ以上は触れない。

 そうした要素を抜きにしても、アメリカとして自国の国益を冷静に考えた場合、ベルリン攻略には執着しないとの判断は、十分にあり得たのではないかと自分は考える。

 実際、アメリカは、ナチス第三帝国崩壊のどさくさの中、したたかに実益を享受している。ソ連赤軍が、死に物狂いの帝都ベルリンに苦戦し、膨大な数の若い命を日々失っていた間に、米軍は、手薄になったドイツ南方に戦力を集中し、戦後はソ連の支配下となることが既に明確であった領域まで深く進軍して、その土地にいた科学者等の人材の身柄を確保し、アメリカ本国に連れ帰るという「ペーパークリップ作戦」敢行した。最重要のターゲットとされたのはV2ロケットと原子核融合関係の技術者である。アメリカは、同年7月まで本来のソ連帰属地域に居座った後、自分たちに割り当てられた占領地に引き上げたが、この間に本国に連れ帰った人材の利用価値は、目先の課題となっていた日本攻略、その後の冷戦でのソ連との対峙の両方の観点で、計り知れないほどの意義があった。

 そのような各国の政治的思惑の交錯や、幾つかの実利的な駆け引きはあったものの、米英ソの3国は、ほぼ当初の約定通りに連携し、共にドイツを倒したのである。

 ヒトラー亡き後のドイツは、デーニッツを大統領とする政府をドイツ北部の街フレンスブルクに樹立したが、勝者となった連合国はこれを政府として認めず、あらかじめ決めていたドイツ分割案に基づいて、英米ソにフランスを加えた戦勝4か国が直接的にドイツ人を統治する体制を敷いた。この点、敗戦直後の我が国日本が、GHQの支配下にはあったものの、曲がりなりにも内閣を持ち、日本人の直接的な統治者はあくまで日本人であることが維持されたのとは、事情が大きく異なる。

 ナチス第三帝国の滅亡と共に、国家としてのドイツは消滅し、ドイツ人は主権を完全に失った。ドイツは、東プロイセン、シレジア、ポメラニア等の東方地域を中心に、戦争前の国土の4分の1を他国に割譲され、残された“本土”とでも呼ぶべき土地も、米英仏ソの4か国に分割されて、各国占領軍の直接統治を受けることとなった。

 分割された“元ドイツ”の地に展開する4か国の占領軍政府は、それぞれ独立していたが、それを束ねる”連合国管理委員会”と呼ばれる上位組織が設立され、4か国政府が協調して、占領下ドイツを、”非ナチ化”が終了するまで、一つの行政単位として運営していく予定であった。

 その体制が早々に破綻してしまうであろうことは、21世紀の現代を生きる我々の視点からは想像に難くない。歴史は、事実そのようになり、共産主義を掲げるソ連と、資本主義陣営の米英仏の対立によって、4か国による共同統治体制は崩壊し、ドイツは、分断国家となっていったのである。

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 このベルリン陥落の章を書き終えるにあたり、自分には、少なからぬ当惑がある。2014年4月にカリーニングラードを訪れ、独ソ戦について書き始めた時、自分は、ベルリン陥落をもって、この凄惨な戦争の物語は、大いなるフィナーレを迎えるものと思っていた。

 ベルリン陥落の章を書くことは、想定を遥かに超えて重かった。ドイツ本国を東西から挟撃されて滅んだナチス第三帝国の断末魔を書くためには、自分がこれまでずっと追いかけてきた東部戦線についての理解だけではなく、西部戦線の戦闘の経緯や、その後ろ盾として登場したアメリカという巨人についても、一定の理解が必要になった。また、怜悧で優秀であるはずのドイツ民族が、何故ヒトラーのような狂人に翻弄されることになったのかという、この稿の最もコアなテーマとも向き合い、自分なりに頭を整理する必要もあった。

 それでもなんとか前へ進み、独ソ戦という、この壮絶な戦争の最後の瞬間まで辿り着いた時に自分がそこで見た光景は、自分が想定していたようなフィナーレでは全くなく、今日まで続く戦後社会の“始まり”としての意味合いの方が、遥かに大きいものであった。

 それは、例えていえば、そこが頂上だと思って何年もかけて登ってきた地点にいざ立ってみて初めて、その頂(いただき)の奥の遥か霞む先まで、更なる峰が続いていることを目にしたような感覚で、そのあまりの途方もなさに、眩暈(めまい)に近い当惑を禁じ得ないのである。

 もっとも、当初完結編とする想定だったベルリン陥落の章まででは、この「追跡独ソ戦」というルポの筆を置くわけにはいかなさそうだとの感覚は、書き始めて2~3年経った頃から、既に自分に芽生えていた。

 この戦争は、ドイツの側からソ連へ侵略したことからはじまり、途中からソ連が逆転し、最後はソ連が帝都ベルリンまで攻め込んで、ナチス政権を滅亡させて終わった。しかし、その戦闘の終結をもって両民族の利害の対立が決着したわけではない。ドイツが分断国家となり、東ドイツがソ連の傀儡的存在となったことで、ロシア、ドイツ両国民の確執は、その後も長く続いた。

 ロシア人とドイツ人の確執が漸く終わりを迎えたのは、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一が成された1990年になってからである。両国民にとっての、本当の意味での戦争の終結は、その時であったろう。だとすれば自分は、ベルリンの壁が崩落し、ドイツ人とロシア人がどう和解したのかを見届けるまで、この稿を書き続けなければならない。

 この壮絶なる戦争の結果としてのドイツの敗北を機に、米英仏ソの戦勝国を中心とした国際社会で取り決められた“新しい秩序”が国際連合を生み、ヤルタ体制と呼ばれる国際レジームとなって、今日までそれが続いている。1945年に終わったこの大戦の後も、中東、ベトナム、バルカン半島、アフガン等を中心に、悲惨な戦争は後を絶たないが、それでも世界は、“世界大戦”の現出だけは、70有余年に渡って、なんとか抑え込んできたのである。

 それがあと何年持つだろう。第二次世界大戦という未曽有の大戦争の後に仕切りなおした国家間のパワーバランスが崩れる時が、いずれ来るであろう。その時、我々は、近現代の人類の歴史がそうであったように、ここでまた、再び大きな戦争を経験することになるのであろうか。この稿を書き始めた頃に自分が漠然と持っていたその懸念は、ここへきて、いよいよ足元の問題として顕在化していると強く感じる。

 なればこそ、自分は、この稿を書き始める時に持った思いの原点に立ち返りたいと思う。自分が知りたかったのは、何故第二次世界大戦が起こってしまったかとともに、その反省を踏まえた国際社会の枠組み作りがどのようになされ、それが、どういう経緯を経て今日に至っているのか、である。その平明なる事実を、より正しく、より深く理解することで、「では今、我々は、何を、どうすれば良いのか?」という命題に対する判断材料を、少しでも多く手にすることが出来るのではないか。

 そういう意味では、ベルリン陥落までの経緯はあくまで序章に過ぎず、ベルリンの焦土から始まったその後の世界について書くことこそが、この稿の本題なのかもしれない。
 焦土のベルリンを前にして、今自分が感じているのは、そのような、虚脱感にも似た途方もなさである。自分には、しばしの充電が必要である。以下のことは、今後の章に譲り、ベルリン陥落の章は、一旦これにて完結としたい。(第八篇 ベルリン陥落 完)

2021年5月~9月

*著作権及び文責は「Koji Sakamoto’s Blog」に帰属します。

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坂本 航司

神戸出身・パリ在住。

スペイン、メキシコ、オランダ、ロシアの各国を経て、現在はフランスに駐在。ロシア駐在中に単身になったことをきっかけに、元々好きだった写真撮影を再開し、МФК PHOTOS に加入。 そこで出会ったオールドレンズの世界にはまり、ソ連、東独系のレンズを好んで使っている。

歴史や文章を書くことも好きで、独ソ戦に興味を持ち、ロシア駐在をきっかけに、個人的なルポ を書いている。

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