追跡 独ソ戦 第七編「赤軍 東欧進撃」

<エストニアの悲劇>

 あるロシア人がこんなことを言っていた。
 

「バルト三国の人たちは、ソ連時代は本当に悲惨で嫌だったというけど、ああいうことは当時のロシアでは当たり前だったのです。ロシア本国では、東欧やバルト三国よりさらに酷いことが幾らでもありました。」
 

 それは、史実としては正しいのだろう。しかし、もしこの発言を「だからしょうがないじゃないですか。」という趣旨で使うのであれば、その意味合いは全く違ってくる。
 

 どの国も、どの民族も、多かれ少なかれ、社会の矛盾や内的軋轢を抱えている。それがその人々の居住地内で害を発するのは、ある意味「しょうがない」ことであり、人々は、自らの問題としてそれに対処する必要がある。しかし、この種の矛盾や軋轢が国境線を越えて溢れだし、隣国に害をなしたとすれば、隣人たちにとってこれほど迷惑な話しはない。このことは、我々日本人も、他山の石として深く認識しておくべき問題であると、自分は考える。
 

 エストニアは、バルト三国の中でロシアに一番近い場所にある。人口130万人。日本で言えばさいたま市ほどの人口で、一つの民族、一つの国家を成している。バルト海の奥座敷であるフィンランド湾の南岸にあり、80kmを隔てて向き合う北岸のフィンランドと、民族的にも言語的にも近しい。
 

 エストニアの首都タリンは、最も北に位置したハンザ同盟都市で、ドイツ風の美しい街である。中世以降、海上交易で栄えたエストニアだったが、18世紀以降は東から勢力を伸ばしてきたロシア帝国の版図に組み込まれた。ロシア革命を契機に、エストニアは、一度は独立を宣言し、生まれたばかりのソ連政権も一旦これを承認したが、スターリンの時代に入り、ロシア人は、再びこの地を自国の支配下に置こうとした。
 

 時は、ヒトラーとスターリンが独ソ不可侵条約を結び、かりそめの友好関係の下、東欧を2つに分割した時代。ポーランドの中央から西をナチスドイツが、その東をソ連が自国の版図に組み込むことを相互に認め合い、その刈り取り作業に勤しんだ。
 

 独ソ不可侵条約が発効したばかりの1939年9月に、ソ連は、エストニア政府に対し、同国内にソ連の軍事基地の建設と赤軍の駐留を受け入れさせ、翌1940年6月には、大軍をもってエストニアに侵攻した。勝ち目のない戦いでの流血を嫌ったエストニア政府は、積極的な抵抗をしないことを決定したが、ソ連政府は、現エストニア政権にはソ連に対する謀反の疑いがあると迫り、エストニア国内の共産主義者を支援してクーデーターを起こさせた上、暴力を伴う管理選挙を経て共産党政権を設立せしめ、その議会がソ連に“嘆願”するという形をもって、エストニアをソ連に併合した。
 

 一連の“手続き”を終えたソ連は、かつてスターリンが自国で行ったのと同じ粛清行為、すなわち、富裕層、指導者層を処刑、流刑に処し、その資産を没収して、指導能力を根絶やしにせんとする暴挙を、エストニアの地で敢行した。6万人近いエストニア人がその犠牲となったという。若者は徴兵され、赤軍兵として戦うことを強いられた。
 

 1941年6月にナチスドイツのソ連侵攻が始まると、事態は一変した。破竹の勢いで東へと進むナチスの機甲師団は、エストニアにも入ってきた。エストニアの人々は、ソ連がその地から放逐されることで、再び国民国家が設立されることを期待したが、ナチスにとって、バルト三国、ロシアも含めた東方の大地は、ドイツ人の植民地となるべき土地であった。その地に住む人々の自治はおろか、民族の大半をその地から追放するというのがナチスの思惑であり、エストニアの若者たちは、新たにナチス兵として徴兵された。
 

 ナチスによる侵略は、この地に凄まじいホロコーストももたらした。ポーランド等から逃げてきたか、強制収容されてきた何万というユダヤ人が、バルトの地で殺されている。杉原千畝が、リトアニア領事として二千数百のビザを発行してユダヤ人たちを助けようとしたのは、正にこの時代の話しである。
 

 エストニアの地は、まるで潮の満ち引きのようなソ連とナチスの攻防に、その後も翻弄される。1944年、勢力を盛り返してきたソ連赤軍は、ついにロシア自国内からナチスを駆逐し、ベルリン陥落を目指す第一歩として、エストニアの地に再侵攻してきた。
 

 独ソ乱戦の混乱の中、一部の男たちがエストニア国民軍を立ち上げ、一時はタリンの自由を取り戻し、街一番の塔「のっぽのヘルマン」にエストニアの国旗を掲げるに至ったが、ほどなくソ連赤軍に引きずり降ろされてしまった。
 

 その後に訪れたのは、ナチス軍、赤軍それぞれに属することを強いられたエストニア青年同士が銃口を向けあい、白兵戦を繰り広げるという悲劇である。
 

 全てのエストニア人が、ただ民族の自立を望んでいるにも関わらず、若きものは戦士として、壮年者は政治の執行者として、占領民族の手先となって、同胞と争うことを余儀なくされた。
 

 “バルト海攻勢”と呼ばれる1944年のソ連赤軍によるナチス軍の駆逐戦において、ソ連赤軍は、6万人の戦死者と20数万人の負傷者を出した。
 

 そしてエストニア人は、1939年のソ連による占領から、ナチス支配、そして、バルト海攻勢の戦場なっていく時代の流れの中で、実に25%もの同胞の命を失っている。
 

 第二次大戦終了後、ソ連は、死傷30万に及ぶ自国兵士の血に対する当然の代償ということであろうか、エストニアを含むバルト三国を専制支配し、多くの人をシベリアの強制収容所に送り、残った人々にも自由を与えなかった。自国のロシア人に対してそうしたのと同じように。エストニア人が、ロシアの頸木から解放されるのは、それから40年超の時を経てソ連が崩壊した後の1991年になってからである。
 

 ロシア人、そして、エストニア人は、その過酷な歴史を「しょうがなかった」とすることが、果たして出来るだろうか。
 

 ロシア人よ。我々は、あなた方の愛国の心を否定しない。しかし、あなた方の愛国が、その地続きのずっと先の辺縁部で、その地に住む人々に対する侵略という形を取り得、その事が近隣国に対し、潜在的かつ慢性的に、深刻な恐怖を与えているということも、どうか心の隅で理解しておいて欲しい。
 

<ワルシャワ蜂起>

 1944年夏のベラルーシにおけるバグラチオン作戦で、ナチスの中央軍集団は壊滅した。第三帝国の滅亡はもはや明らかだった。後は、どのような形で彼らが滅亡を迎えるか、誰がその止めをさすかである。ソ連赤軍にとってのその答えは明確であった。ナチス第三帝国は、完膚なきまで蹂躙されるべき存在であり、その止めは、祖国を踏みにじられた自分たちロシア人の手によってさされるべきである。対ナチスでソ連と共闘する英米軍もまた、ノルマンディ上陸後、苦戦しながらもドイツの西方国境に近づきつつあったが、断じて彼らに先んじられてはならない。目指すはナチスの帝都ベルリン。“на Берлин(ナ・ベルリン)/ベルリンを目指せ”が、いつしかソ連赤軍兵士たちの合言葉になった。
 

 一方で、スターリンの頭の中には、既に別の思惑もあったと思われる。ベルリンまでの通り道である東欧諸国を、どのような形で戦後の自分の版図に組み込むかである。
 

 バグラチオン作戦で電撃的な東進を成し遂げたスターリンは、そのままベルリンへと突き進めば兵站が伸び切ってしまうことを懸念し、ヴィスワ川で一旦進軍を停止して、この地に橋頭保を築いて軍事物資と兵力を蓄えることを指示した。その一帯は、ポーランド人の土地である。
 

 ヴィスワ川はポーランドの主要都市を繋ぐようにして流れている。上流では、古都クラクフの中心を流れ、首都ワルシャワの東岸を潤し、港町グダニスクの東でバルト海に注ぐ。
 

 1939年9月、第二次世界大戦がナチスのポーランド侵攻によって始まった。その後、ナチスがポーランドの地で行った横暴は、筆舌に尽くしがたい。その地に住むポーランド人の人権を認めず、歯向かうもののみならず、潜在的に指導者足りうるものがいれば、容赦なく銃殺するか、絞首刑に処し、その一部の死体をアパートのベランダに吊り下げ、大半を灰にして郊外に埋めた。ポーランド語の使用は禁止され、子供達には、簡単な算術と文字の記述以上の教育を与えることを禁じた。
 

 ナチス侵攻時に国外に逃れたポーランド軍は、いわゆる自由ポーランド軍として、英米軍とともに、西部戦線で極めて勇敢に闘った。ロンドンには、ポーランド亡命政府が設立され、ナチス占領下となった本国ポーランドでも、反乱勢力のポーランド国内軍(AK: Armia Krajowa)が組織され、40万の兵力をもってレジスタンス活動を行った。国内軍は共産主義ではなかったが、対ナチスではソ連赤軍とも共闘関係にあり、ナチス軍東部戦線の兵站を後方で攪乱してヒトラーを大いに悩ませた。
 

 レジスタンスによってナチスが被害を受けた場合、その報復として、死亡ドイツ兵1名に対し、100人のポーランド市民が見せしめに銃殺された。街を行く市電を止め、そこから降ろした市民を、老人子供を問わず100人まで数え、路上で銃殺するのである。街行く市民はそこに留まるよう指示され、その惨劇を目にすることを強いられた。
 

 ナチスのポーランドでの占領統治は、そのような圧倒的理不尽さをもって継続された。その圧政が5年になろうとしていた1944年の夏、バグラチオン作戦が最終局面に入り、ソ連赤軍がワルシャワを臨むヴィスワ川の東岸にまで迫ってきた。ワルシャワ市内にいたナチス軍の多くが戦場に駆り出されて警備が手薄になり、さらには、昼夜を問わず、ワルシャワを通って西へと退却していく敗残兵の姿も見られるようになった。ナチスの劣勢は誰の目にも隠しようのない事実となり、今こそ、屈辱と隷従の頸木を解き放とうとのポーランド人の思いが、熱波のごとくワルシャワの街を覆った。
 

 「自由というものへの憧れは、それを奪われたものにしか、わからないものです。」当時若き女性兵としてレジスタンスに関わった女性は、そう語っている。
 

 その年の6月、西部戦線では、連合国がノルマンディ上陸を果たし、フランスの街が、西から、一つ、また一つとナチスから解放されているという事実を、ワルシャワ市民は知っていた。そして今、自分たちが置かれている東部戦線においても、連合国の一員であるソ連赤軍が、ナチスを駆逐しつつワルシャワから10kmの距離まで迫っている。当時ワルシャワ市内に駐屯していたナチス兵は1万余。戦闘員はその十分の一にも満たなかった。
 

 折しも、ラジオからは、ワルシャワ市民の蜂起を促す赤軍の放送が盛んに流れるようになり、ワルシャワの上空を旋回するソ連空軍機からも「市民たちよ、自由の時が来た。今こそ決起し、共に闘おう。」と書かれた大量のビラが撒かれた。彼らと組めば、確実にナチスをワルシャワの街から放逐出来るだろう。ソ連赤軍によって解放される前に、自らの手で自由を勝ち取りたいとの思いもあった。ワルシャワの市民と国内軍は、遂に対ナチス蜂起の決断を下した。
 

 1944年8月1日17時、時刻“W”、ワルシャワの街で蜂起が決行された。決起した国内軍兵士の数は3万5000(4万との説もある)。そのうちのかなりの数を、10代を含む若者たちが占めていた。女性兵も、その数4000に上った。
 

 決起とともに、国内軍と市民は一丸となってナチスに立ち向かった。国内軍の3万5000の兵のうち、多少でもまともな銃を持ったのは2500人。後のものはみな丸腰で、ただ走って戦場を駆け抜けた。市民たちは、老人や子供までが集まって、敷石を剥し、バリケードを築く作業にいそしんだ。
 

 国内軍は、初日には苦戦を喫し、多くの犠牲者を出したが、2日目、3日目は、ナチス軍兵士を各所で追い込み、3日間で市街の半分を解放した。8月の夏の日、5年ぶりの自由に人々は歓喜した。街には赤と白のポーランドの旗が翻り、占領下で禁止されていたショパンの調べが路地裏に響いた。
 

 しかし、ワルシャワ市民の熱い興奮の裏では、残酷な運命が既に動き出していた。ワルシャワ蜂起の報告を聞いたヒトラーは激怒し、蜂起の殲滅を指示した。今後想定される占領ヨーロッパ諸都市の反逆への見せしめとして、蜂起に関わった全市民を殺し、ワルシャワの街を徹底的に破壊しつくす。それが、ヒトラーが腹心ヒムラーに課した指令であった。ナチス軍は、敗退の途にあったワルシャワ付近の兵を集め、ワルシャワ討伐軍を編成した。
 

 ヴィスワ川の東岸では、もう一つの異常事態が明らかになりつつあった。蜂起と呼応しワルシャワに進軍すると言ったはずのソ連赤軍が、一向に動く気配を見せないのである。
 

 形勢を立て直してワルシャワに進軍してきたナチス軍は、ワルシャワ市内の国内軍、市民の双方に対し、苛烈な攻撃を仕掛けた。急降下爆撃機で一般市民の住む建物を住民ごと爆撃し、街の中心に進軍してきた戦車も、バリケードや居住棟に砲弾の雨を浴びせかけた。ナチスの歩兵は、市民が立てこもる建物や地下室に手榴弾を投げ込み、火炎放射を放った。投降して路上に出てくる市民がいれば、女子供を問わず、至近距離から銃弾を撃ち込んで殺害した。それらのナチス兵を駆逐してくれるはずだったソ連赤軍は、川の向こうでピタリと止まったまま、動こうとしない。
 

 ポーランド国内軍は、路地が複雑な旧市街に終結し、ナチスへの抵抗を試みた。銃がないものは棍棒を持ち、火炎瓶やレンガを投げて勇敢に戦った。しかし、たったそれだけの兵器で、ナチス兵と伍するのは到底無理である。ナチスは、旧市街の中央を突破する形で、国内軍の占拠エリアを複数に分断した。それでもレジスタンスの兵士たちは下水道を使って行き来して、ナチスに抵抗した。
 

 蜂起の最中、人民軍の若い男女の、実に256組もが、硝煙の立ち上る戦場で結婚式を上げた。明日はお互い生きているかわからない。若い男女の兵士たちは、確かに現世で生きたという証を、そのような形でこの世に残しておきたかったのかもしれない。
 

 ワルシャワ蜂起軍の苦戦は続く。ソ連赤軍がワルシャワを見殺しにするつもりなのは、もはや誰の目にも明らかだった。ロンドンのポーランド亡命政府は、イギリスとアメリカからの蜂起支援の約束も取り付けていたが、彼らもまた無力だった。ワルシャワ上空に英米軍機が飛来し、物資を投下したが、その多くはナチスの占領地域に落ち、反乱軍の手に届いたのはわずかだった。
 

 8月下旬、一つのニュースがワルシャワの街に届いた。パリ解放である。ワルシャワ市民は、ナチスの悪夢から解放されたパリ市民の幸せをささやかに喜び、自分たちは世界の孤児であることを改めて思い知らされ、深く悲しんだ。
 

 9月後半にはいよいよ物資が欠乏し、人々は、馬を殺し、道を行く犬や猫を捕まえて食らった。もはや、抵抗は限界に近付きつつあった。
 

 10月2日、死闘及ばず、ついにワルシャワの市民と国内軍兵士はナチスに投降した。63日に及ぶ抵抗で、20万に及ぶ国内軍兵とワルシャワ市民が命を落とした。生き残った70万の市民も強制退去を強いられ、ワルシャワは、瓦礫だけが残る無人の街と化した。
 

 蜂起が鎮圧されて3か月が経った1月、ソ連赤軍は、満を持して、ドイツの東国境間まで攻め上るヴィスワ=オーデル作戦を発動し、1月12日に、廃墟となったワルシャワの街を自らの支配下におさめた。進軍にあたっては、スターリンが自らの傀儡政権として設立した共産勢力、ポーランド国民解放委員会(所謂ルブリン政権)のポーランド人を伴い、この者たちに戦後のソヴィエト衛星国としてのポーランド人民共和国を設立させた。
 

 共産系のポーランド国民解放委員会の設立が1944年の7月22日。ソ連赤軍から、自由主義系のポーランド国内軍への蜂起の呼びかけが7月29日。そして蜂起決行が8月1日である。結局ソ連は、自らがけしかけた国内軍の蜂起に対し、指一本動かすこともなく、抗戦相手のナチスの力を利用して、将来の抵抗勢力を殲滅することにまんまと成功したのである。自分は、この種のロシアの狡猾さと残忍さに、モンゴル帝国の末裔を見る気がして、戦慄を禁じ得ない。
 

 10年近く前になるが、自分は、ワルシャワの街を、仕事で二度ほど訪れたことがある。訪問先のエージェントは瀟洒な旧市街の昔風の建物の一角に小さなオフィスを構えていて、若い女性マネージャーの下で、数人の若いポーランド人青年たちが働いていた。
 

「綺麗な街並みだね。」自分がそういうと、女性マネージャーはこう答えた。「そうね。でも、これは全部復元で、最近出来たのよ。第二次大戦の時にこの街は何もかも破壊されたけど、その時と寸分たがわぬ形で再現されたのがこの辺りの街並みなの。」そのころはまだ、自分は、ワルシャワ蜂起の事実を知らなかった。
 

 8月1日午後5時、“時刻W”。その時間になると、鳴り響くサイレンとともに、ワルシャワの街を行きかう人も車も一斉に動きを止め、犠牲になった市民への黙祷が捧げられる。
 

 1944年の夏に、この街で戦った若き兵士たちは、自分の中で、あの時会ったポーランドの若者たちと、何故か重なって見えるのである。
 

<ポーランドのユダヤ人>

 自分が追跡しているソ連赤軍は、ポーランドの地からナチスを駆逐し、ドイツ本国に攻め込もうとしている。ポーランドでは、この戦争のさなか、ドイツ人とロシア人が激しく戦い、多くのポーランド人も巻き添えとなった。さらにこの地では、本来的には異邦人であるユダヤ人も、世界史上類を見ない凄まじい厄災に見舞われている。
 

 それは、独ソの戦闘とは直接的には関係のないことかもしれない。しかし自分は、この地でユダヤ人の身に降りかかった厄災に、この戦争の狂気の一部と、それを生み出した当時の世界の歪みの本質の一つが、浮き出ているように思えてならない。自分は、この稿をベルリン陥落まで書き進めていくその過程において、この地でユダヤ人何が起こったのかを、どうしても書かないわけにはいかない。
 

 大戦中、ナチスの手によって命を奪われたユダヤ人の数は、約600万人と言われている。そのうちの半分、300万のユダヤ人が、ポーランドに住んでいた。ヨーロッパにおけるユダヤ人差別は非常に長い歴史を持つ。その中でもポーランドは、ユダヤ人差別が相対的に少なかった国で、中世以降、多くのユダヤ人がこの地に集まった。
 

 ポーランドは、13世紀にモンゴル帝国の侵略を受け、国土が壊滅的な打撃を受けたが、その復興策として、隣国のドイツ人と並んで、ユダヤ人にも土地所有等を認め、積極的に誘致した。
 

 また、この地のある習慣が理由でペストが流行らなかったことも、ポーランドにユダヤ人が多くなった理由の一つだと、何かの書き物で読んだことがある。中世のポーランドでは、ウオッカで身体を拭く習慣があり(消毒という発想はなかったと思われるが)、このせいかどうか、ペストの発生がヨーロッパの他の国より圧倒的に少なかった。当時のヨーロッパでは、ペストをもたらすのはユダヤ人だとして、各国でいわれなきユダヤ人排斥運動が展開されたが、その種の惨禍がポーランドでは少なかった。
 

 いずれにせよ、ユダヤ人を嫌い、排斥する風潮は、近代になっても、ヨーロッパの殆どの国で濃厚に存在した。中世のペスト流行に見られるように、社会不安が高まると、ユダヤ人排斥の機運が激化する傾向があるが、第一次世界大戦の敗戦により極度のインフレと社会不安が渦巻いていたドイツでは、それが顕著に表れ、その社会不安の申し子として出現したヒトラーのナチス政権は、ユダヤ人排斥をその政策の根幹の一つに据え、ドイツ国民から熱狂的に支持された。
 

 まずヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人に対し、商業を中心とする彼らの権益を制限し、アーリア人との交流を断たせ、やがては彼らユダヤ人の人権と資産を奪い、国外に追い出す政策を進めていく。目的は、自分たちの世界からの追放で、最初から大量殺戮まで考えていたわけではなかったはずである。
 

 ヒトラーが掲げた政策のもう一つが東方植民である。第一次世界大戦のような辱めを受けないためにドイツは強くあらねばならない。そのためには、より広い国土が必要で、ドイツ東方の土地、すなわちポーランドやウクライナ、ソ連の一部を自らの版図に収め、その地にドイツ人を入植させようという政策である。この目的追行のためにヒトラーは、1939年9月にポーランドに侵攻した。
 

 ソ連との事前の密約により、ポーランドの西半分を併合したヒトラーだったが(東半分はソ連が併合した)、その侵略行為により英仏の宣戦布告を受けた。ヒトラーは、それを受けて立つ形で西部戦線へ電撃作戦を展開し、あっさりとフランスを降伏させて勢力下においた。
 

 話しをユダヤ人排斥政策に戻す。ドイツ国内でユダヤ人の権利を奪うことは好きにできたヒトラーだったが、彼らをどこに追い出すかについては、当初から問題を抱えていた。ドイツ勢力圏外のヨーロッパ諸国に追い出すのが一番手っ取り早かったが、いずれの国もユダヤ人の存在を快く思っておらず、その受け入れを拒んだ。この問題を解決するため、ナチスは、アフリカのマダガスカル島に追放ユダヤ人を集団移住させるという政策を真面目に検討し、配下に置いたフランスの協力の意も取り付けていた。
 

 しかし、開戦以降、破竹の快進撃を見せていたナチスも、英国侵攻作戦“バトル・オブ・ブリテン”に失敗したことで、外交的に行き詰る。英国はドーバー海峡を境に自国の防衛線を維持し徹底抗戦の構えを見せており、アメリカは英仏を支持する姿勢を明確にしつつあった。ヒトラーは、緒戦で大勝利を得ていたにも関わらず、ドイツ優位の停戦交渉がしにくい立場に置かれた。
 

 この閉塞を打破するべく、ヒトラーは新たな賭けに打って出る。1941年6月の対ソ開戦である。当時独ソ不可侵条約が結ばれていたとは言え、いずれ両者が仲たがいすることは誰の目にも明確だった。英仏に対峙ずるドイツの背後にソ連が存在することが、ドイツの潜在的脅威たりえ、このことが英国を強気にさせていた。ヒトラーは、英国の希望を打ち砕くために、ソ連を殲滅することが必要と考えた。それは簡単に成し遂げられるだろうとも、当初思っていた。事実ナチスは、対ソ連の東部戦線においても、圧倒的な強さを発揮し、破竹の快進で一時はモスクワにまで迫る勢いを見せた。
 

 ソ連侵攻により、東方植民政策も一気に加速した。しかしこのこと、ユダヤ人政策におけるナチスの懐事情に、大きな地殻変動をもたらすこととなった。新たなナチスの版図となったポーランドには300万、ソ連には100万のユダヤ人が住んでいた。ドイツ国内のユダヤ人が16万人だったことを考えると、桁違いの数字である。ただでさえ、ドイツをはじめとする西欧の占領地域在住のユダヤ人の追放先に困っていたナチスは、それを遥かに上回る数のユダヤ人を抱え込むことになり、ますますその扱いに困ることとなった。
 

 ナチスから見たユダヤ人は、アーリア人との接触など許されない劣等民族で、ボルシェビキズム、すなわち共産思想を巻き散らす思想的危険分子でもあり、社会から隔離されるべき存在であった。このためナチスは、ドイツ本国と占領下の隣国で徹底したユダヤ狩りを行い、彼らを鉄道貨車に乗せて、ポーランド国内に建設した隔離施設、いわゆるゲットーに連れて行った。
 

 ゲットーは、都市部に作られたユダヤ人の強制居住区である。その最大のものはワルシャワゲットーで、ヨーロッパ各地から狩り集められたユダヤ人が続々と押し込められた。あくまでゲットーは、ユダヤ人を東方に追放するまでの間、彼らを隔離して集住させるための、一時的な通過点である。ナチスは、ソ連を倒した後、凍てつく東方の大地でユダヤ人たちを酷使するか、そのさらに先に追い出すつもりでいた。
 

 しかし、ソ連はそう簡単には崩壊せず、ユダヤ人の東方移送が全く進まないまま、受け入れるべきユダヤ人の数ばかりがどんどん膨れ上がった。ワルシャワゲットーの収容ユダヤ人数も44万を超え、超過密状態となって、人々は路上にまで溢れた。ワルシャワゲットーは、東京でいえばお台場の敷地面積にほぼ等しい。そこに日本の中規模地方都市2つ分にも相当する住民を押し込んだらどういう状況になるか、ご想像頂きたい。
 

 ゲットーに住まわされたユダヤ人たちは、劣悪な環境下、厳しい強制労働に駆り出されたため、連日大量の死者が出た。”労働を通じた絶滅(Vernichtung durch Arbeit)”という概念が、当時のナチスにはあった。収容ユダヤ人らを、生存に必要なレベル以下の食糧しか与えない状態で極限まで酷使する。過労死すればそれまでであり、死ななくても、衰弱して労働の用をなさないと判断されれば、その段階で殺害するのである。
 

 毎朝の点呼で、弱って十分に働けないとみなされるものを、「おまえ」「おまえ」と指名して列の一歩前に出させ、彼らをどこかに連れて行って殺すか、面倒くさければその場で額に銃を当てて射殺した。そうしたゲットーの日常的光景が、映画「戦場のピアニスト」に生々しく描かれている。
 

 劣悪な公衆衛生により、チフス等を発症し死ぬものも多かった。ナチスは、ゲットーにおいて既に、緩慢、かつ“非効率”な形でのユダヤ人の大量虐殺を始めていたと言っていい。
 

 ユダヤ人がそのような厄災に遭っている間にも、ナチスの対外戦争は続いていた。その戦局が、1941年12月に、さらに大きな転換期を迎えることになる。
 

 その年6月の対ソ開戦以来、一方的な勝利を続けてきたナチス軍は、モスクワ中心部への突撃までもうほんの僅かという時点で攻勢限界に達し、冬将軍の洗礼も相まって、進軍停止の状況に陥った。このことは、電撃戦の失敗、長期戦への移行を意味し、ソ連を降伏させるというヒトラーの野望がかなう可能性が、限りなくゼロに近づいたことを意味した。ヒトラーは、この時点ですでに、自らと第三帝国の将来の破滅を悟り、以後、自暴自棄の迷走状態に陥ったとの見方もある。
 

 ソ連打倒の可能性が消えたことをもって、ナチス占領下の500万を超えるユダヤ人の域外追放の可能性は、完全に失われることとなった。ゲットーは、衛生面でも収容者の不満においても既に限界の状況にあり、感染症の外部流出、反乱等により(実際大規模な蜂起があった)、都市全体に被害が及ぶ危険が日に日に高まっていた。
 

 ナチスの幹部たちは、この問題にどう対処するかを論議し、モスクワ攻略失敗とほぼ時を同じくして開催されたヴァンセー会議にて、“ユダヤ人問題の最終的解決”すなわち、大量殺戮を公式に決定した。人目につかない郊外に”絶滅収容所/Death camp”を建設し、工業的、かつ効率的に、ユダヤ人を殺戮しようというプロジェクトである。
 

 この方針決定を受け、ワルシャワをはじめとするポーランド各地のゲットーでは、鉄道出荷広場に、老若男女を問わず、日々多数のユダヤ人が集められ、貨物列車にすし詰めに押し込められる光景が日常的に見られるようになった。
 

 貨車の行き先は絶滅収容所である。収容所に着いたユダヤ人たちは、獣のように追い立てられ、外に出された。貨車の中で絶命しているものも数多くあった。降ろされたユダヤ人たちは、収容所現場管理者によって一列に並べられ、お前は右、お前は左と仕分けられていく。左に分類された2割には、”労働を通じた絶滅”という運命が与えられ、右に分類された8割は、そのまっすぐ絶滅施設に送られて、その日のうちに死が与えられる。
 

 絶滅収容所でのユダヤ人殺害方法は、最初は銃殺がメインだった。ユダヤ人たちに塹壕のような穴を掘らせ、その前に彼らを並ばせて射殺。次の一列を並ばせてまた射殺。折り重なる死体で穴がいっぱいになれば、後続のユダヤ人にそれを埋めさせ、また次の穴を掘らせ・・・という工程を延々と続けるのである。
 

 この作業は、非効率である上に、現場のナチス党員に大きな精神的負担を与えた。大量殺戮のそもそもの推進者であったヒムラーもアイヒマンも、その現場視察に行って気分が悪くなったという。
 

 より効率的な殺害の為にガス殺が開発された。ナチスの幹部たちは、これにより現場の殺人執行者たちの精神的負担が軽減されたことを、大いに喜んだ。
 

 初期のころ、ガス殺には一酸化炭素を使った。銃殺より遥かに効率的ではあったが、ガスを送り込んでから全員が死に切るまでに30分もの時間を要した。その間、中にいる人々のうめき声を聞かねばならず、稀に30分経っても死に切らずにもだえ苦しんでいるものもいて、殺人執行者の精神に負担を与えた。
 

 後に使われたのが、元々殺虫剤として開発されたシアン化合物”ツィクロンB”である。これにより、ガス殺よりもはるかに短時間で、効率的な殺戮が可能になった。
 

 死体処理法すら進化した。銃殺が中心だった当初は、土葬状態で死体を大量に地中に埋めたが、その地表には死者たちの血が滲みだし、悪臭を放った。不衛生であるだけでなく、殺戮の事実隠蔽という観点からも都合が悪かった。
 

 ホロコーストの後期には、クレマトリウムという、ガス室のすぐ隣に焼却炉を設置した施設も多数作られた。ガス室で一度に大量のユダヤ人達を葬り、隣の焼却炉でてっとり早く焼いて灰にした。ナチスは、人殺しを“産業”として完成させたといっていい。
 

 ナチスは、様々な信じられない人体実験もおこなったが、これ以上はもう、自分も書くに堪えない。
 

 とにかくそのようにしてナチスは、600万のユダヤ人を殺害した。当時ヨーロッパに住んでいたユダヤ人の3分の2を葬り去ったことになる。狂気の沙汰という他ない。
 

 その行為の是非や、罪の重さを論議することは、もはや無意味である。むしろ検証されるべきは、いったいどこから、そのような一大殺人事業を成し遂げるだけの負のエネルギーが湧いて出たかにあるのではないかと、自分は思う。
 

 その核として、ヒトラー個人の狂気があったことは事実だろう。執行者であるナチス幹部たちの忖度や功名心、そして彼ら自身の狂気の要素もあったろう。それにしても、そうした個人たちの情念だけで、600万もの人間を殺害するほどの社会的運動エネルギーを創出できるだろうか。自分はそこに、それ以外の何物かの存在を強く感じる。
 

 社会の歪みによって生み出された人々の苦しみや憎しみが、何かの力学で一点に濃縮されていき、やがてその負の磁場に、ヒトではない何モノかが生まれる。そのモノは、邪悪な意思を宿した生命体として、圧倒的な威力を持って、狂気の世界に周りの全てを引きずり込んでいく。
 

 その種の何モノかは、現世での実務執行のために、しばしばヒトラーのようの男の身体に降臨する。そのモノにとっては、為政者の失敗も好物のエネルギーであり、為政者に失敗の埋め合わせのためのさらに大きな失敗をさせるという形で、負のエネルギーを身体に溜め込んで、どんどん肥大していく。
 

 自分には、そういう目に見えない存在が、当時のドイツを支配してたように思えてならない。
 

 かつて我が国でも、欧米列強による世界の植民地化に対し、民族の自立を保ちたいという極めて真っ当な動機で始まった富国強兵思想に、いつの日か負の情念が集まって過激な国粋主義に転じるという形で、それが生まれた。
 

 そのモノは、独立した意識を持って世を支配し、癌細胞のように猛烈に増殖した。その結果、近隣国家に厄災を成し、最後は祖国自らをも食い潰て破綻に追いやった。学徒出陣の一将校としてこの渦に巻き込まれた山本七平氏は、この指導者なき民族の暴走状態を、“組織の自転”と称した。
 

 それと同じ存在が、今、そして将来のドイツや日本、或いはそれ以外の国に、再び降臨してくる可能性はないか。ないと言い切れるか。言い切れないのだとすれば、その存在を未然に察知し、対処するにはどのようにすればよいか。ヤツが為政者の身体を乗っ取るのはずっと後の段階のはずである。その時には既に、ヤツの本体である憎悪の菌糸が、民衆の情念の中に、びっしりと張り巡らされている。
 

 第二次世界大戦におけるユダヤ人大虐殺は、そうした何者かを地上に出現させてしまったという意味で、人類全体の責任であったのではないかと、自分は思う。そのような惨劇を二度と起こしたくないと思うのであれば、その発生のメカニズムが、もっと研究され、広く人類の間で共有されるべきである。
 

<ヴィスワ・オーデル攻勢>

 1945年1月、既に5年を超えたヒトラーの戦争は、遂に断末魔の時を迎えつつあった。西部戦線においては、1944年6月にノルマンディ上陸を果たした英米軍が、その年の12月からのバルジの戦いでナチス軍を破って西部戦線開戦前の独仏国境であるジークフリート線まで到達し、ドイツ本国侵攻に王手をかけた。そのバルジの戦いが大詰めになりつつあった1月6日、チャーチルは、スターリンに対し東部戦線での対ナチス攻勢再開を要請した。
 

 1944年8月にワルシャワ蜂起を見捨て、ポーランド人の自滅を見届けたスターリンは、その前後に、バルト三国、ルーマニア、ブルガリア、バルカン半島を手中に収め、東欧を自らの勢力下に収めつつあった。
 

 1945年1月12日。準備が整ったと判断したスターリンは、ポーランド東辺のヴィスワ川からドイツ本国の東の国境を成すオーデル川まで軍を進める“ヴィスワ・オーデル攻勢”と呼ばれる作戦を発動させる。チャーチルの要請に貸しを作る形で、予定を前倒ししての行動であった。
 

 英米がソ連の軍事力を頼ったという事実に、今日的には非常に違和感がある。後の東西冷戦の構図がこのころ既に出来上がりつつあったことを思えば、なんとも皮肉という他ない。英米仏の連合軍は、もはや滅亡寸前のナチスドイツに、それほどまでに手を焼いていたということであろう。このことは、極東で頑強な抵抗を続けていた日本についても同様である。我々は、ソ連の対日参戦を、そういう構図の一部として捉えなければならない。
 

 半年に渡りヴィスワ川東岸の橋頭保で英気を養ったソ連赤軍は、220万の大兵力をもって進軍する準備を進めた。その動きはナチスの現場将兵たちによってヒトラーに報告されたが、彼はそれを、アジア的な誇大妄想だとして取り合わなかった。
 

 対するナチス軍にかつての勢いはなかった。無敵を誇った中央軍集団は、前年のバグラチオン作戦で壊滅し既にない。さらに、なけなしの兵力の一角を成した北方軍集団は、現在のリトアニアに当たるクールラントに閉じ込められていた。その数20万。ソ連によるドイツ本国侵攻の守りを固めるのであれば、この兵力はなんとしても生かしたい。陸路の移動は不可能だったものの、海からならまだ脱出の余地はあった。
 

 ナチス幹部たちは、このクールラント軍を本土防衛に展開させることを提案したが、ヒトラーは拒否した。当時この地域にはナチスの潜水艦、Uボートの基地があった。ヒトラーは、当時開発が進んでいた新型のUボートをもって連合軍の大西洋の補給路を断ち、優位な状況での停戦交渉を目論んでいた。仮に数艦のUボートが大西洋で暴れまわったとしても、既にこの局面においては、ナチスが主導権を保った形での停戦など望めるべくもなかったが、ヒトラーの事実認識はそうではなかった。
 

 体制の放棄、さもなくばドイツ国家国民諸共の滅亡。それが当時のドイツに突き付けられていた選択である。前者を拒んだヒトラーにより、ドイツ国民は地獄のどん底へと叩き落されていくこととなった。
 

 結局ナチスは、かつての南方軍集団の一部であるA軍集団の45万の兵力で、その5倍のソ連赤軍と対峙することとなった。保有する戦車、火砲の数でも、ソ連赤軍に圧倒的に劣っていた。結果は火を見るより明らかであった。
 

 ソ連赤軍は、僅か20日ばかりでヴィスワ川からオーデル川まで進軍し、ポーランドをわが物とした。その進軍の途上においてソ連赤軍は、かつて自分たちが見捨て、ナチスになぶり殺しにさせたワルシャワの街が、街も人も全てが灰塵に帰した現実を目の当たりにして驚愕し、その先で解放したアウシュビッツでは、人類の行為とはとても思えないナチスの残忍さに触れ、その狂気に震撼した。
 

 ポーランド進軍を進めたソ連赤軍は、同じタイミングで、ドイツ東方の飛び地東プロイセンにも攻勢をかけたが、“ドイツ本国”であるその地は、ポーランドほど簡単には攻略できなかった。ポーランド制圧は1月中に片を付けたが、東プロイセン攻略は、3月末になっても決着せず、その中心都市ケーニヒスベルグでの攻防戦は、4月に入ってからも続いた。
 

 その土地は、ソ連赤軍によって制圧された後、南北に分断され、南半分はポーランドに編入され、北半分はソ連の所有となりカリーニングラードという名前を与えられた。現在も、この地はロシアの飛び地となっている。
 

 21世紀の今日において、何故そこにロシアの飛び地があるのか。自分は、この独ソ戦の追跡を、カリーニングラードの地を訪れ、その“何故”を紐解くところから書き始めた。2014年4月のことだ。その後、モスクワ、レニングラード、スターリングラード、ミンスク、タリン、ワルシャワと独ソ激戦の跡を追い続け、4年超を経て稿を書き進めた結果、再びこの地に戻ってきたことに深い感慨を覚える。
 

 ソ連赤軍が東プロイセンの攻略に手を焼いている間に、西部戦線においては、英米軍がライン川を渡河し、ルール工業地帯を制圧しつつあった。このままでは、ナチス打倒の手柄を英米仏側にとられてしまう。
 

 この戦争で彼ら西欧人が流した血の量など、本土進攻を受け地獄の責め苦を味わった自分たちロシア人に比べれば、本当に僅かなものでしかない。ナチスに止めを刺し、応分の代償を得るべき主体は、絶対に自分たちロシア人でなければならない。そのために新たなロシア人の血が必要であれば、どれだけ人命を投じても惜しくない。その思いは、スターリンや赤軍幹部だけでなく、或いは、前線の兵士たちにも共有されていたかもしれない。
 

 1945年4月初旬に東プロイセンのケーニヒスベルグを陥落させたロシア人は、彼らが“大祖国戦争”と呼ぶこの戦争の最後の決戦に臨む決意を固めつつあった。目指すはベルリン。そのためにはまず、オーデル川の西岸にあるゼーロウ高地を超えていかねばならない。
 

 1945年4月16日早朝。ベルリンの東70kmの地で、ナチスと赤軍の最後の闘いの序章が遂に始まったのである。

(第七編完、第八篇 「ベルリン陥落」へ続く)

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坂本 航司

神戸出身・パリ在住。

スペイン、メキシコ、オランダ、ロシアの各国を経て、現在はフランスに駐在。ロシア駐在中に単身になったことをきっかけに、元々好きだった写真撮影を再開し、МФК PHOTOS に加入。 そこで出会ったオールドレンズの世界にはまり、ソ連、東独系のレンズを好んで使っている。

歴史や文章を書くことも好きで、独ソ戦に興味を持ち、ロシア駐在をきっかけに、個人的なルポ を書いている。

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