追跡独ソ戦 第八編「ベルリン陥落」前編

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 1941年6月のナチスの電撃戦によって始まったこの戦争は、既に丸4年に近づきつつあった。一時はソ連の首都モスクワを包囲したナチス軍も、ヒトラーの指示の迷走と、ロシアの凍てつく大地とどれだけ血を流しても倒れない巨大な熊のようなロシア人たちの抵抗によって押し戻され、母国ドイツの国境を守ることも危うい状態になっていた。

 この血みどろの戦争の雌雄は既に決していた。ここから先は、ヒトラーが生み出したナチスという狂気の集団と、それと一体化してしまったドイツという国家、そしてドイツ国民が、どのような形で終焉を迎えるかが主題となる。

 そして、勝者となるソ連が、ここまでの過程で投じた膨大な血と人命の代償として、対ドイツ、対国際社会で何を勝ち取るかが、もう一つの大きな主題であった。戦後国際社会の中で、英仏米ソの連合国側のどの国が主導権を取るか、すなわち、後の東西冷戦の構図が、ナチスにどうとどめを刺そうかというこの局面において、既に顕在化しつつあったということである。

 この章では、ベルリン陥落・ナチス崩壊のその日まで、東西両戦線の最終局面がどのように展開し、後の東西冷戦に繋がる対立の構図がどのように生まれて行ったか、その中で、ソ連赤軍、スターリン政権、そしてロシア国民は、何を代償として払い、何を獲得したのか、ヒトラーとナチスに率いられたドイツ国民がどのような形で終焉を迎えたのか、そもそも何故、あのようなナチスの狂気が生じたのかといった諸疑問を紐解きながら稿を進めていきたい。

 まず、ここまでの戦況をふり返っておく。

 1939年8月、宿敵と思われていたナチスドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結し、世界を驚愕させた。翌9月にはナチスがポーランドに侵攻。英仏がこれに抗議して宣戦を布告し、第二次世界大戦が勃発した。同月、独ソ不可侵条約の密約に基づき、ソ連もポーランドに侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割支配されることとなった。

 1940年4月、ナチスは、デンマーク、ノルウェーに侵攻。翌5月には、ベネルクス、フランスに侵攻し、“電撃戦”によって6月にはフランスを降伏させた。ナチスは、7月にはイギリス本土上陸作戦にも着手しようとしたが、イギリス空軍との航空戦“バトル・オブ・ブリテン”に敗退し、西部戦線における破竹の快進撃はここで一旦停止する。ヒトラーはまた、圧勝に見えたベネルクス、フランス侵攻時にも、ダンケルクからのイギリス軍の本国大量脱出を許していた。

 ヒトラーは、緒戦の圧勝で優位に講和交渉を行うことを目論んでいたが、チャーチル率いるイギリスがそのダメージを一定水準に止め、ドーバー海峡を挟んで徹底抗戦の構えに入ったことで手詰まりとなり、イギリスよりまずソ連を屈服させることに方針転換する。不可侵条約を結んでいる独ソだが、本来は水と油である。ヒトラーは、スターリン粛清で弱り切ったソ連は、フランス同様に一撃で屈服させられると考えた。ソ連もナチスの配下となれば、イギリスも強気の抗戦は継続できず、ナチス第三帝国を勝者として交戦諸国と講和を結ぶことが出来るとヒトラーは目論んだ。

 1941年6月22日、ナチスのバルバロッサ作戦発動により、独ソ戦の戦端が切られた。スターリンは、ヒトラーが不可侵条約を破棄して侵攻してくるとはゆめ思わず、侵攻が現実のものであるとの報告を受けてなお、恭順とも称すべき弱気の姿勢でナチスの先制攻撃に一方的にやられた。ナチスの機甲師団は、その年の盛夏のロシアの平原を東へ東へと驀進し、レニングラード、モスクワのすぐ手前まで駒を進めた。

 かつてフランス人は、パリを包囲された段階であっさりと降伏し、ナチスのパリ無血入城を許した。恐らくヒトラーは、ロシア人も同様であると考えたのであろうが、彼はロシア人をあまりにも知らなさすぎた。ロシア人たちは、膨大な兵員、戦闘車両、領土、民間人の命を失ってもなお、一向に降伏するそぶりを見せず、モスクワを焦土にしてシベリアに一旦撤退してでも徹底抗戦する構えを見せ、ヒトラーとナチスを驚愕させた。

 一旦の攻勢限界に達したものの、ナチス優位の戦況は変わらず、翌1942年の夏には、ブラウ作戦の名の元、ナチス軍はロシア南部の平原に軍を展開する。しかし、明確な戦略を持たないこの作戦は迷走し、スターリングラード市街戦を経て、1943年1月に、ソ連赤軍がスターリングラードから撤退しようとするナチス軍を包囲殲滅し、初めての辛勝を収める。ソ連赤軍は、同年夏のクルスクでのナチスとの大戦車戦も制し、独ソの攻守は完全に逆転することとなった。

 1943年は、ナチスがいずれ敗北することが、ほぼ明確になった年であった。しかし未だナチスは大きな戦闘力を残し、止めを刺すまでまだ予断を許せない状況である。この年、連合国首脳は相次いで会談し、ナチス(そして日本)に、どうとどめを刺すかを話し始めた。11月のテヘラン会談では、スターリンが“第二戦線(Второй фронт:フタロイ・フロント)”が開かれることを要求し、ルーズベルトとチャーチルはこれを飲んだ。英米両国は、1944年春に北フランスへの上陸作戦を敢行することをスターリンに約束する。オーバーロード作戦、すなわちノルマンディ上陸作戦である。

 いわゆる“西側”の視点から見れば、欧州における第二次大戦の主戦場は西部戦線であり、東部戦線はその裏番組のような印象が強い。しかし、より客観的な視点で見れば、ナチスとのがっぷり四つの死闘を繰り広げ、膨大な血と人命を投じてナチス崩壊の端緒を作ったのは間違いなくソ連であり、確かにその観点で、西部戦線は“フタロイ・フロント”であった。

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 西部戦線では、1939年夏にイギリスがナチスのブリテン島侵攻を阻止はしたものの、ヨーロッパ大陸を占拠するナチスに反攻する戦力を確保出来ない状態が長く続いた。1942年夏にフランス北部のディエップへの上陸作戦が試みられたが、さんざんの失敗に終わっている。それ以外は西部戦線におけるナチスへの反攻には目立った動きがなく、その間、膨大な血と人命の対価を払い続けながらナチスを弱らせていったのはソ連であり、ロシア人だった。

 西部戦線がどのようなものであったかを考えるにあたり、後にその主力となったアメリカという国について、少し紐解いておきたい。

 第一次大戦から第二次大戦へと、世界が激動の波に揉まれていたこの時期、イギリスやフランスの国家としての年齢を例えるなら、壮年から老年の入り口あたりだったろうか。ロシアも、レーニンの共産革命で体制が刷新されてはいたが、中世の時代から続く歴史のある国である。それに対しアメリカはまだ、殆ど青年ともいえる若い国家だった。

 アメリカ合衆国は、1776年にイギリスからの独立を宣言し、相前後する独立戦争に勝って、国家として誕生した。その時点での国土は東部13州のみで、西に広がる広大な“フロンティア”を自らの手で開拓し、その地に元々住んでいた先住民を従わせて版図を広げていくことが、この国の基本的な行動原理となった。古代ローマ・ギリシャを起源とする文明を、西の果てまで届ける使命、いわゆる“マニフェスト・デスティニー”を自分たちが持つという文明観が、その根底にある。彼らの西部開拓が完成し、自国内のフロンティア消滅が宣言されたのは1890年、我が国でいえば明治23年のことである。

 ちなみにアメリカは、このフロンティア開拓の途上で、メキシコとの戦争、すなわち米墨戦争に勝利し、北部メキシコ(現在のカリフォルニア、ユタ、ネバダの全土と、アリゾナの大部分、コロラド、ニューメキシコ、ワイオミングの一部)を割譲し、自らの国土としている。その後、自らの影響範囲を中南米全域に広げ、イギリス、フランス、オーストリア等の欧州列強が自らの縄張りに干渉するようであれば、武力で対抗するとのスタンスを取るようになった。

 18世紀から19世紀にかけての欧州では、海外領土の奪い合いと、欧州域内での勢力争いによる列強各国間の戦争が、頻繁に起こっていた。アメリカは、この争いに巻き込まれることを好まず、自らの版図とする新大陸で、列強に干渉されずに国益を発展させていくことを志向する孤立主義、いわゆるモンロー主義を国是とした。

 欧州で断続的に発生していた列強間の武力闘争は、1914年の第一次世界大戦の勃発によって、それまでとは全く異なる規模の総力戦となった。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、トルコ帝国による中央同盟国と、英仏露を中心とする欧州各国による連合国との対決となったこの戦争に、アメリカは当初、干渉しない方針を示していたが、1917年に連合国側で参戦した。この大戦に仮に同盟国側が勝利した場合、その一角であったドイツが覇権国家として躍進し、アメリカのモンロー主義的利権の妨げとなりうると見たからであるが、諸手を挙げて大戦への参加を是としたわけではなかったようである。

 第一次世界大戦後も、アメリカの欧州に対するスタンスは、干渉か中立かで揺れる。1935年には中立法が制定され、再び欧州と距離を置く向きも見られたが、敗戦国のドイツやイタリアで、社会不安によりファシズムが台頭してくると、これをアメリカの将来的な脅威と考えるようになった。その一角のナチスドイツが再軍備を完了し、ポーランド侵攻で領土的野心と国際社会への対決姿勢をあらわにすると、アメリカが英仏の後ろ盾となると明言し、両国がナチスに宣戦布告することを求めた。アメリカはまた、レンドリース法を制定し、英仏ソの連合国に対する軍事物資支援も積極的に行うようにもなったが、自ら戦闘の前面に立つことはなかった。

 アメリカの姿勢が決定的に変わるのは、欧州での大戦勃発から2年の後、1941年も暮れになってからであった。12月8日、“ニイタカヤマノボレ一二〇八(ヒトフタマルハチ)”の暗号の元、大日本帝国海軍が真珠湾のアメリカ海軍基地を奇襲した。海外参戦に否定的だった米国民の民意は一気に参戦に傾き、ルーズベルト大統領は日本に宣戦布告。太平洋戦争が勃発した。

 アメリカ人が西方に追い続けた“フロンティア”は、北米大陸の東岸に達したその先で、太平洋の海へと広がっていった。1853年の我が国へのペリー来航も、このムーブメントの一部とみなすことが出来るだろう。1898年、アメリカは、スペインとの米西戦争に勝利し、キューバーとともにグアムとフィリピンを獲得した。また同年、ハワイ王国も併合し、太平洋を跨ぐ版図を築きつつあった。

 ペリーが浦賀に訪れたころ、アメリカが太平洋に求めたのは商業上の利権であったが、その約50年後のアメリカは、グアム、フィリピンを植民地として西大西洋に軍事的な足掛かりを確保し、さらにその勢力を中国大陸に伸ばそうとしていた。

 一方の日本は、ペリー来訪以降、攘夷と開国の思想が拮抗する動乱の幕末を経て明治政府を立ち上げ、富国強兵により欧州列強に準ずるレベルの近代国家となった。日清、日露の両戦争に勝って中国大陸に勢力を広げ、第一次世界大戦では連合国側について戦勝国となり、敗戦国ドイツの領土だった南洋諸島を勢力下に収めた。

 アメリカにとって、自国との利権が拮抗する日本は、もはや看過できない存在となった。日米の開戦には、我が国の軍国主義化をはじめ、様々な要素が絡み合っているが、国益という観点で見れば、上記のような構図が下地にあるといえよう。1941年12月8日の真珠湾攻撃は、そうした流れの中で起こったのである。

 話しを欧州に戻す。この、日米開戦という太平洋での出来事を受け、2日後の12月10日に、欧州でも一大事が起こった。日本と軍事同盟を結んでいたヒトラーが、アメリカに宣戦布告したのである。ナチスの側近たちは反対した。また、イギリスのチャーチルは、日本軍の真珠湾攻撃の報を聞いた段階で、アメリカが連合国に参戦し、ナチスとの戦争に勝利出来ることを確信したという。

 アメリカは、そうした経緯を経て欧州西部戦線の当事者となったのである。

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 1944年6月6日6時30分、ドーバー海峡を渡りノルマンディの沿岸に押し寄せた連合国の艦船群による上陸戦が始まった。前日夜には空挺部隊が降下し、追って上陸してくる本体の進路の確保にあたっていた。D-Day、ノルマンディ上陸作戦の開始である。

 満を持しての欧州戦闘へのアメリカの本格的参戦である。この作戦に参加する47師団のうち、半数近い21師団が米軍。これに、イギリス軍、カナダ軍、そして、自由フランス軍、ポーランド軍等のヨーロッパ諸国軍が加わった。最高司令官は、後にアメリカ大統領となったアイゼンハワー陸軍大将であった。

 イギリスからヨーロッパ大陸に上陸する際の最適地は、ドーバー海峡が最も狭くなる位置にあるカレーである。後に建設されたユーロトンネルも、このカレーからイギリスへと通じている。しかし連合国側は、ドーバー海峡が最も広く、ドイツからもより遠いノルマンディを上陸地点に選び、それをナチスに悟られないよう、入念な陽動作戦を行った。

 ノルマンディ近辺には、上陸予定日の直前に低気圧が襲来し暴風雨となったが、計画は決行された。ナチスの幹部は、荒天のさなか、イギリス側から最も遠いノルマンディに連合国軍が上陸してくるとは全く想定しておらず、多くの幹部が休暇を取って任地を離れていた。

 港からの上陸は避け、ノルマンディ海岸の5つのビーチが上陸地点に選ばれた。西から、ユタ、オマハ、ゴールド、ジュノー、ソードと命名されている。いずれも、水力両用戦車や艦船の援護射撃の中、ビーチの浅瀬まで揚陸用舟艇(しゅうてい)を接近させ、船首の扉を下げて中に収容している歩兵部隊を下ろし、波打ち際から陸上にあがらせるという戦闘方式である。

 5つの上陸地点の中でも、オマハ・ビーチでの戦闘は凄惨を極めた。援護用の水陸両用戦車の大半が水没したこと、上陸地点の正面にナチスの精鋭部隊が陣取っていたこと等により、歩兵部隊は銃弾の雨の中での突撃上陸を余儀なくされ、多数の兵員が波打ち際で命を落とした。さらには、第一隊が海岸線で押しとどめられている所に後続の第二隊が押しかけ、諸共に陸上のナチスからの銃弾を浴び、一帯は地獄絵のような様相を呈した。“ブラッディ・オマハ”と称されたこの上陸戦は、映画「プライベート・ライアン」冒頭の衝撃的なシーンでも世に知られている。このオマハ・ビーチで、3000を超えるアメリカ人青年が命を落としている。

 そのような大きな人的代償を払いつつも、連合軍は、その日のうちにノルマンディへの上陸を果たし、その後フランス内陸部への侵攻も順調に進め、8月25日にはパリを解放している。

 英米を中心とする連合軍がノルマンディに上陸し、西部戦線での対ナチス攻勢がほぼ5年ぶりに再会されたこの6月、東部戦線でもソ連赤軍による大攻勢が敢行された。バグラチオン作戦と命名されたこの戦いで、ソ連赤軍はベラルーシを奪回した。さらにその夏のうちにルーマニアを占領し、秋口にはバルト三国への侵攻も開始したうえ、ハンガリーへもその支配の領域を広げようとしていた。

 1944年6月以降、ナチス第三帝国は、そのような東西からの挟撃で防衛線を急速に後退させていき、ナチス崩壊はもはや時間の問題となった。いや、ここから先は、いつナチスが崩壊するかではなく、誰がナチスを倒すのか、すなわち、東部戦線側のソ連、西部戦線側の英米仏連合軍のどちらが、どのような形でナチスに止めを刺すのかこそが、最も重要なテーマとなったというべきであろう。

 既に終わりが見え始めているこの戦争の後の世界の覇権を巡り、お互いに譲れない国際政治上の戦いが、既に始まっていた。外形的、そして軍事的には、ドイツ、そして日本を叩き潰すために、英米仏ソが全面的に連携している中で進行しつつあったこの鬩ぎ合いを、敗戦国である我々日本人はしっかりと理解しなければならない。

 西部戦線における西側連合国軍の進軍は万事順調だっただけではなく、大きな失敗も経験している。マーケット=ガーデン作戦がその例である。

 連合軍は、ノルマンディ上陸からパリ解放を経て、9月にはベルギーの一部も勢力下に収めた。しかし、過去の幾多の戦争が実例を示すように、敵地での快進撃は兵站線の伸長による補給の困難を生み、戦線の停滞を生んだ。

 また、西側連合国軍の主力となった米軍とイギリス軍は、決して一枚岩だったわけではなく、それぞれの母国の置かれた立場や政治的思惑から、ナチス打倒へ向けこの先どう駒を進めていくかについての基本的見解が、そもそも異なっていた。

 イギリスは、1939年から既に5年を超えてこの戦争を戦っており、長引く本土空襲で国民の我慢も限界に達しつつあった。また、この年1944年の9月にナチスが開発に成功したV2ロケットの発射基地がオランダのハーグに建設されたこともあり、イギリス国民の恐怖はより深刻なものとなりつつあった。

 そのような背景もあってか、イギリス軍を率いるモントゴメリー元帥は、西側連合国のドイツ本国侵攻の主力をベルギー・オランダ戦線に置き、そこから蘭独国境を突破してドイツの産業の中枢部であるルール工業地帯に進軍させ、クリスマス前までにこの戦争を終結させる方針を強く主張した。ナチスは既に潰走状態にあり、その追撃は容易に違いないとの“希望的観測”もあった。

 一方のアイゼンハワー総司令官は、アルザス・ロレーヌ地域がある独仏中部国境地帯を中心に、西部戦線全体に包囲網を築き、東から攻め込んでくるソ連赤軍とも連携しながらナチスを撃滅するとの基本方針を掲げていた。また、ベルギー・オランダ方面の兵站用の港湾確保がまだ十分なされてない中で、オランダ内陸に過度に進軍することには一定以上のリスクが伴う。本土が戦争に晒されておらず、西側連合国軍全体を率いる立場にあるアメリカからすれば、モントゴメリーの掲げる方針には賛同しかねた。

 アイゼンハワーとモントゴメリーは激しく対立し、上官であるアイゼンハワーは、一時はモントゴメリーの解任も考えた。が、友軍イギリスの意向を無視するわけにもいかず、最終的には英米妥協の折衷案として、空挺部隊を主戦力に、ベルギーからオランダのドイツ国境近くまでの複数の渡河地点を抑え、細長い侵攻ラインを確保するマーケット=ガーデン作戦の実行が計画・決行された。

 オランダの都市アイントホーフェン、ナイメーヘン、さらにはライン川を越えた北側にあるアーネムの3都市に3.5万を超える空挺部隊を降下させた上、ベルギーから地上軍を北へ進軍させ、空挺部隊が確保した“点”を”線”として繋ぐというものである。地上軍の進軍距離は100km超。その道のりを、ナチス軍を蹴散らしつつ進まなければならない。空挺部隊には、いずれ到着する地上軍を支障なく北上させるよう各都市の橋梁を確保・死守する任務が与えられた。

 政治的妥協の産物であったこのマーケット=ガーデン作戦に対し、前線の軍人たちからは、計画発表当初から無理や曖昧さに対する疑問の声が囁かれた。空挺部隊が現場を押さえられるのは極めて限定的な時間で、ノルマンディ上陸作戦がそうであったように、一両日中に到着する地上軍と合流することが任務遂行の要件となるが、果たしてこの作戦でその要件は満たされているのか。

 いざ戦闘が始まってみると、ナチスの防衛力は英米軍の想定を遥かに超え、英米軍の様々な不手際と不運も相まって、地上軍の侵攻は遅々として進まず、敵地に降下させられた空挺部隊は何日にも渡り圧倒的に不利な状況下での戦闘を強いられた。特に、攻撃動線の最先端にあたるアーネムに降下したイギリスの空挺師団は完全に孤立し、その苦境は筆舌に尽くしがたいものがあった。その苦境を救わんとして、米軍、ポーランド軍等の多数の兵員がボートによる渡河で果敢にアーネム突入を試みたが、対岸で陣を張るナチス軍の機銃掃射と砲撃の雨で大半が命を落とした。

 アーネムの部隊は8日間に渡り持ちこたえたが、遂にマーケット=ガーデン作戦の中止が決定され、撤退の指示が下された。翌日の脱出戦で無事生還できたのは、降下した1万の兵のうち、わずか2000であった。アーネムは、正に「遠すぎた橋」であった。

 この作戦の失敗に対し、アメリカはモントゴメリーの用兵のまずさを非難し、モントゴメリーは、アイントホーフェンまでは制圧できたこの作戦はそもそも成功しているし、不足があったとすればそれはアメリカの戦力の出し惜しみだと主張した。現場からすればどちらでもよいことかもしれない。現場にとっては、現実が正確に把握され、適切な戦術と戦力が手当てされることこそが、任務を達成する上での必須要件なのである。

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 マーケット=ガーデン作戦の失敗後も、兵站の脆弱さをどう解消するかが、西側連合国にとって大きな課題であった。オランダの南部まで達した前線への兵站は、ノルマンディの仮設港湾施設か、フランスの地中海側から送り込むしかなかった。ベルギー最大の港であるアントワープは既に西側連合国の手中にあったが、同港はスヘルデ川を遡った内陸部にあり、河口域は未だナチス軍の制圧下にあった。

 この問題を解消すべく、カナダ軍が主力となって、1944年の10月から11月にかけてスヘルデ川河口部に攻勢がかけられ、ナチスは同地域から駆逐された。その後、スヘルデ川河口の機雷掃海が行われ、11月末にはアントワープ港での大型貨物船による荷揚げが開始され、西側連合国の兵站は一気に強化された。ナチス第三帝国からすれば、いよいよ本国進攻への王手をかけられたと言ってよい。

 ヒトラーは、この1944年秋の段階でもなお、少なくとも米英仏の西側連合国とは、講和・停戦を模索していた。自国の敗北が明らかになってからの講和交渉が成り立つべくもないことはもちろん彼も承知で、この戦争がまだまだ長引きそうだという状況になんとか持ち込んだうえで、相手国民の疲弊を梃(てこ)に講和に持ち込むことを目論んだ。

 ヒトラーは、こうした思惑から、アントワープ奪還を目標とした、アルデンヌ方面に展開する西側連合国への攻撃を計画した。彼は、この戦いに、残っている兵員、兵器、燃料の相当量をつぎ込み、1939年の電撃戦でのダンケルク包囲に近い状況を再現しようとしたのである。制空権は既に西側連合国の手に渡っていたので、アルデンヌに濃い霧が発生する冬の到来を待ち、奇襲で決着をつける作戦が計画された。

 ドイツ本土防衛戦が控えている中、なけなしの戦力をはたいての決戦となることが必至だが、勝算は極めて低く、ナチスの司令官達はこぞって反対したがヒトラーは譲らず、彼自身が計画を立案する形でこの作戦を決行した。

 1944年12月16日に始まったこの戦いは、アメリカ、及び日本では、バルジの戦いという呼称で知られている。バルジ(Bulge)とは突出部を意味し、ナチス軍の攻勢で西側に張り出した突出部を巡る攻防となったため、この名が使われるようになったのである。

 西側連合国は、ドイツにもはや攻勢に出られるだけの余力がないと高を括っていた。前線からは、ナチス軍に何らかの動きがみられるとの報告も上がってきたが、ナチスの暗号エニグマの発信が全くないため、上層部は、暗号発信すら出来ないほど疲弊したナチスに攻勢など出来るわけがないと、現場からの報告を黙殺した。しかし、以前と違い、ナチスの防衛陣地は既にドイツ本国になっている。実際には、ナチスは無線を封鎖し、電話や電報、伝令将校による現物伝達をもって作戦の指令を発していたのである。

 このような慢心に、悪天候で航空力が使えなかった要素も加わり、ナチスの突然の攻勢に、西側連合国軍の前線は大いに混乱し、一部で壊乱状態となった。ナチスの部隊の一部が、米軍の服を着て鹵獲(ろかく)した米軍車両に乗って戦線の後方に紛れ込んだことも、混乱に拍車をかけた。

 そのように緒戦で善戦したナチス軍だったが、皮肉にも、ドイツ国外に深く進攻したことで、作戦遂行上、無線封鎖を解除せざるを得なくなり、その内容が西側連合軍に解読され、全てが筒抜けとなった。現場からの第一報を受け、迅速に部隊増強を決定したアイゼンハワーの英断も相まって、西側連合軍は早々に戦線を立て直し、ナチスの進軍は開戦後数日で停止してしまった。

 さらに、12/23には天候が回復し、西側連合国は前線への空輸で戦力を増強。一方のナチス軍は、燃料・弾薬の不足がいよいよ深刻となった。それでもヒトラーは、この作戦を失敗に終わらせるわけにはいかないと、地上軍と空軍の追加投入を行い、戦争資源をさらに無駄に消耗させた。

 1月に入ると、西側連合国の反攻はいよいよ本格的になり、ナチス軍は撤退を余儀なくされ、ヒトラーにとって何も得るものがなかったこのバルジの戦いは、1月25日に幕を閉じた。

 この戦いでの西側連合国軍の被害はそれなりに深刻で、8万の兵員が、死傷、捕虜、行方不明で失われた。しかし、真にダメージが大きかったのでナチス側で、10万に近い兵力を失ったとともに、備蓄燃料と戦闘車両の殆どを使い果たしてしまった。

 この戦闘のさなかも、イギリスは、自国の経済と国民の忍耐が、もうこれ以上持たないとの状況にあったのかもしれない。チャーチルは、スターリンに対し、東部戦線においても、一刻も早くソ連赤軍の進軍を開始し、ナチス崩壊を早めるよう懇願した。

 スターリンとしても、西部戦線でいよいよ西側連合軍がドイツ国境内への進軍へ駒を進めようとしている中、1944年の夏にワルシャワ手前で一旦停止していた自軍の戦線を、ベルリンを向けて一刻も早く前進させるべきタイミングに来ていた。

 1月12日、スターリンは、チャーチルの要請を受けた形でスケジュールを前倒しして、”ヴィスワ=オーデル作戦”を発動させた。そして、2月2日の作戦終了までのわずか20日間で、ベルリンからわずか70kmの地にあるドイツ東部の絶対防衛戦、オーデル・ナイセ線まで一気に攻め寄せたのである。この戦闘については、本稿の第七章で触れている。

 1945年の1月はそのようにして終わる。2月初旬には、ナチス第三帝国の防衛圏は、西はライン川、東はオーデル川に挟まれたわずか幅450kmのエリアに狭められ、西の戦線には、アメリカ、イギリス、フランス、カナダの諸軍、東の戦線にはソ連、ルーマニア、ブルガリアの諸軍がびっしりと兵を並べる形となった。5年半に及ぼうとしていたこの戦争は、東西両面の連合国軍によるドイツ本国総攻撃という最終局面に、いよいよ突入していくのである。

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 ドイツと日本の歴史は、やはりどこか似ている。我が国では、貴族の警護を務めていた武士たちが東国を中心に領地を開拓して封建領主となり、12世紀末に鎌倉に幕府を構え封建社会を成立させた。その基本構造は江戸の徳川幕府まで受け継がれ、東が政治と武門の中心、西が商業、産業の中心であった時代が長く続いた。

 ドイツにおいても、封建領主が、現在のポーランドからバルト三国に至る東方地域に盛んに植民し勢力を強めた。日本の武士の勃興期とほぼ同じ頃である。時代は下り、我が国が徳川の治世となった頃、ドイツの封建領主のうち、最も東に位置するブランデンブルグ辺境伯が力をつけ、そのさらに東方の入植地であったプロシア公領との同君連合を形成してプロイセン帝国となり、これがさらに発展して後のドイツ帝国となった。ちなみに、帝都ベルリンは、ブランデンブルグ辺境伯のそもそもの本拠地である。そのような経緯から、ドイツの“武”は、帝国内の東部にておいてより濃密だった。

 一方で、ドイツの商業の中心は西方にあった。ハンザ同盟の雄であるハンブルグとブレーメン(両都市とも、現在でも“ハンザシュタット”の名を冠している)、金融の中心フランクフルト、南部バイエルンの中心ミュンヘンといった商業都市は、いずれも中央より西側に位置し、18世紀後半以降鉄鋼業を中心として発展し、ドイツ工業生産の75%を担うルール工業地帯と、その一角をなす炭鉱は、ベネルクス国境に近い帝国の西の端にあった。

 1945年2月から3月にかけての対ナチス戦では、そのような地理的構成となっているドイツ本国に、東からソ連赤軍、西からは英米仏の西側連合国が侵攻していくのである。必然的に、西側に“割がいい”形となる。

 2月初旬、西側連合国は、ベネルクス国境からドイツ国内のライン川渡河を目指した侵攻を開始する。ライン川下流域をイギリス・カナダ軍が、中流域をパットン将軍率いる米軍が受け持った。

 迎え撃つドイツ軍は、主力の大半を過去の戦闘で失ってしまっている。西部戦線防衛に60を超える師団の防衛に充てていたが、どの師団も定員を割り、武器弾薬も大幅に不足しており、実際には20個師団程度の戦力しかなかった。

 ナチスは、こうした兵員不足を補うため、敗戦の色が濃くなってきた1944年7月に、国民擲弾兵師団と呼ばれる民間人兵団を組織した。東西いずれかの戦線で壊滅した師団の残存兵、少年兵、老兵等で構成された師団で、支給された兵器も銃が中心、せいぜい迫撃砲の援護がある程度で、装甲車両の配備などは無論期待できなかった。ナチスはさらに、同年9月に、国民突撃隊という兵団も創設した。少年から老人まで、残った男子を全てかき集めて編成したような代物で、ろくな兵器の支給も統一された制服もなく、殆ど町内会の自警団ともいうべき組織だったが、そのような人々にも国防の一端を委ねざるを得なかった。

 乏しい装備と限られた訓練の中でも彼らは善戦し、ダムの爆破によりイギリス軍の進軍ルートを水浸しにして足止めする等の戦果も挙げているが、連合国正規軍を相手に互角の戦いが出来るわけもなく、多くが無下に命を落とした。

 西側連合国がドイツ本国へ深く侵攻するにあたっては、ドイツ西部を北に向かって流れるライン川を渡河しなければならない。ナチス軍は、西側連合国の侵攻を防ぐため、ライン川に架かる橋をことごとく爆破したが、撤退するナチス軍を逃すために唯一残していたレマーゲンのルーデンドルフ橋を米軍に奪取され、ライン川東岸への渡河を許してしまう。以後、3月末までにかけて西側連合国は続々とライン川を渡河し、ルール工業地帯の包囲へと駒を進めた。

 ルール地方を守っていたのはナチスB軍集団を率いるモーデル元帥である。ヒトラーは、ルール地方の死守とともに、いよいよその地が連合国に奪われることとなれば、工業施設を徹底的に破壊せよとも命じた。軍人であるモーデルは、ルール地方死守の命令には従ったが、爆破には応じなかった。いつの日か、祖国ドイツが復興を目指す時に、それが必要となると考えたからである。

 ルール包囲戦は4月半ば過ぎまで続いたが、いよいよこれまでと観念したモーデルは、少年兵、老人兵に降伏と投降を指示し、自らは拳銃で自決を遂げた。この戦いの結果、30万を超えるドイツ兵が西側連合軍の捕虜となった。

 そのような経緯で西部戦線において西側連合国がドイツの産業の中枢を手中に収める中、東部戦線のソ連赤軍は、帝国の軍事の中枢とでもいうべき地域での戦闘を余儀なくされていた。

 我が国の明治期から大正期のドイツ帝国の領土は、東西再統一後のドイツの4割近い広さが、現在ポーランドとなっている領域に“くの字型”に大きく張り出した形となっていた。冒頭で触れたドイツ人の東方植民によるもので、第一次大戦のドイツ敗戦で一部の領土を割譲される前の段階では、バルト三国の西端リトアニアに接するまでの全ての海岸線がドイツの領土で、ポーランドは内陸国であった。ドイツ帝国建国の中心となったプロイセンは、ベルリンを本拠としつつ、この東方領土を足掛かりに力を付けた。我が国の明治維新の中核となった島津藩と、どこか似ている気がする。

 いずれにせよ、スターリン率いるソ連赤軍が攻め込もうとしていたドイツ本国東部は、そうした歴史的背景を持つ地域である。ソ連赤軍は1945年のヴィスワ=オーデル攻勢で、こうしたドイツ“本国”の東部領域に数百キロも侵攻し、ベルリンまであと70キロの距離にあるオーデル川の東岸まで制圧していた。

 ソ連赤軍は、2月からの攻勢で、このまま一気にベルリンまで進軍するには、一抹の躊躇があった。ソ連赤軍は、オーデル川までの内陸部は制圧していたが、海岸部にあるポンメルン(ポメラニア)と東プロイセンと呼ばれる近代ドイツ建国の故地、そして内陸のチェコとの辺縁部シレジアは、未だナチス軍の掌中にあった。この状態でベルリンまで細く突出部を延ばして攻め入れば、南北の両側面を攻撃されて突出部が包囲されるリスクがあった。

 また、既にこの戦争の勝者となることがほぼ確実となったソ連にとって、母国とドイツの間にある東欧の出来るだけ多くの領域を自軍の影響下に収めた形で、戦後という新時代をスタートさせるために、ハンガリー、オーストリア等の制圧も並行して進めておかねばならないという事情もあった。

 このため、1945年の2~3月のソ連赤軍は、ベルリンへの侵攻は一旦休止し、ポンメルン、東プロイセン、シレジアのナチス残党の駆逐と、ハンガリーの侵攻に優先的に対応することとなった。殊に、近代ドイツ黎明の地ともいえる東プロイセン、現在のカリーニングラードでのナチス軍の抵抗は熾烈を極めた。この地での戦闘については、本稿の第一編、「カリーニングラード」で触れている。

 ソ連赤軍がこの地域のナチス軍の大半を掃討し、後は東プロイセンの軍都ケーニヒスベルグに包囲されたナチス軍をどう始末するかという状況に持ち込めた時には、既に4月初旬になっていた。西側連合国は、ルール工業地帯の包囲陥落の目途をほぼ立てており、防衛力が著しく衰えたナチス軍を追撃しつつ、ドイツ本国内で急速に支配領域を広げる勢いを見せていた。

 もはや一刻の猶予も許されない。1945年4月16日未明、遂にソ連赤軍は、ナチス滅亡を目指した最後の侵攻作戦に着手した。目指すはベルリン。そのためにはまず、オーデル川西岸にある、“ゼーロウ”と呼ばれる高地を超えていかねばならない。

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 ソ連赤軍がベルリン侵攻のために配備した兵力は、ベルリンの正面にはジューコフ率いる第1白ロシア方面軍、その南にコーネフの第1ウクライナ方面軍、北にロコソフスキーの第2白ロシア方面軍の3方面軍。計250万の兵員がオーデル川沿いにずらりと居並ぶ凄まじい陣容である。

 ソ連赤軍の主力、ジューコフの第1白ロシア方面軍の兵力は約100万である。その前線からベルリンまでの距離は、もはや70キロに満たない。しかし、前線からベルリンを望むオーデル川の西側には、標高差約40メートルの丘陵が横たわっていた。ゼーロウ高地である。ドイツの東西を貫く国道1号線が、このゼーロウ高地を超えてベルリンへ向かっていることからも、ここが交通の要であることが伺える。当然、ドイツにとっても、この高地がベルリン防衛の要衝であった。最後の砦といってもいい。

 帝国を守るナチス軍には、1941年の夏に、北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団計300万の兵力でソ連に攻め入った時の勢いは既にない。4年以上に及んだソ連との血みどろの戦いで、ドイツ人将兵の大多数が、戦死、凍死、または負傷し、或いは捕虜となりシベリアへ送られた。国外の戦線に取り残されたままの兵も多い。今、敵軍ソ連の帝都進撃という国難に対し、ナチス軍が用意できるのは、わずか9万の兵力である。また、戦車、火砲ともに大幅に不足しており、携行弾数も圧倒的に足りていなかった。

 1945年4月16日未明、ジューコフの第1白ロシア方面軍を主力とする総攻撃が開始された。皮切りは、火砲、重迫撃砲、多連装ロケット(カチューシャ)による一斉砲撃である。高地に作られたナチス軍の陣地に、100万発を遥かに超える砲弾が叩き込まれた。その砲撃音は、ベルリン市街からも遠い雷鳴のように聞こえ、建物も振動したという。ソ連赤軍がいよいよそこまで迫っていることを肌で感じたベルリン市民たちの戦慄はいかばかりであったか。ソ連赤軍は、一斉砲撃に続き、航空機でもナチス防衛陣地を徹底的に空爆した。

 先制爆撃の後は、圧倒的な数の戦車と歩兵による進軍である。夜明け前の暗いうちからの攻撃となることから、ジューコフは、用意した150台近いサーチライトで進撃路を照らし上げ、目くらましで自軍兵への狙撃を阻止する策も講じた。

 しかし、圧倒的な戦力で攻撃するジューコフ軍は予想外の苦戦を強いられる。ゼーロウ高地手前の平地は、ナチス軍によりオーデル川から引き込まれた水で沼地と化して歩兵前進の支障となり、用意したサーチライトも、砲撃で生じた煙がスクリーンとなってかえって視界を阻み、むしろナチス軍側から自軍の進軍兵が丸見えになってしまうという逆効果を生じてしまった。

 また、明け方からのあれだけの砲撃と空爆にも関わらず、ナチス軍の戦力が殆ど生き残っていることも徐々に明らかになってきた。ナチス第9軍は、ソ連赤軍の大規模攻撃を予測し、その時間帯に兵員を後方の戦線まで退避させていた。ジューコフ軍は、無人の丘陵に砲弾の雨を降り注ぎ続けたのである。ナチス軍はまた、なけなしの砲門も巧みに隠し、温存した戦力で赤軍への反撃に出た。焦ったジューコフは、第2軍の戦線投入も決行するが、前線はかえって混乱を増すばかりで事態の改善には至らず、攻撃初日は目立った戦果も挙げることが出来ないままに終わってしまった。

 ジューコフとしては焦らざるを得ない。ベルリンの制圧はソ連の専権事項であると、2月のヤルタ会談で英米との話しがついていたが、その合意を尊重しようとするアメリカのルーズベルト大統領(※)に対し、イギリスのチャーチル首相は、戦後の対ソ連との国際政治上のパワーバランスを考えるうえで、ウイーンに加えベルリンまでソ連に占領させることは得策ではなく、西から進撃してベルリンに突入すべきとアメリカに強く抗議していた。ジューコフは、イギリスを中心に、西側連合国がベルリンに侵攻する可能性がゼロではないという事実をクレムリンでスターリンから聞かされ、どんなことがあっても、ベルリン制圧で西側に先んじられてはならないと厳命されていた。

 また、スターリンが、この長い戦争の仕上げであるベルリン占領の栄誉を、ここまでの最大の功労者であるジューコフに与えることを基本姿勢としていた一方、ジューコフとコーネフが功を競うような関係性におかれていたことも、ジューコフの焦りの大きな要因となっていた。

※ジューコフがクレムリンでスターリンと会談したのが3月末。ゼーロウ高地への進撃が4月16日。その間の4月12日に、ルーズベルト大統領は、昼食中に脳卒中で倒れ死去した。壮絶な歴史である。

 ナチス側はゼーロウ高地の防衛に勢力を集中するのに精いっぱいで、コーネフの第一ウクライナ方面軍がベルリン南東の森林地帯に進軍することを許してしまう。コーネフ軍はジそこから北に進軍の方向を変え、ナチス軍を側面から攻撃することでジューコフ軍の戦闘を支援した。

 ジューコフ軍も、緒戦で苦戦しつつも、予備軍を投入し、ナチス第9軍を平押しに押しまくった。少ない兵力で大いに善戦したナチス第9軍も、圧倒的な兵力差により徐々に前線に綻びを生じ始める。第9軍は、数日間なんとか持ちこたえたが、19日には戦線を分断され、遂にはゼーロウ高地を捨て、撤退することを余儀なくされた。

 第9軍はちりぢりになって西へと移動し、ナチス側は、以後、まとまった兵団で赤軍に応戦することはもはや出来なくなった。東部戦線の実質的な消滅といってよい。ここから先は、ベルリンに進軍するソ連赤軍と、砲撃の雨で瓦礫の山と化した市内の建物の陰からゲリラ的な抵抗を続けるドイツ防衛軍が相対峙する、壮絶な市街戦となる。

 ゼーロウを守ったナチス第9軍の現場指揮官ブッセは、この戦闘に臨むにあたり「我々の任務は、米軍戦車に背中を撃たれるまで持ちこたえることだ。」と語ったというが、このことが、この大戦末期におけるドイツ、ひいては冷戦時代まで繋がるドイツが置かれた状況の本質を表しているかもしれない。

 欧州における第二次世界大戦は、西部戦線と東部戦線の2つに大別されるが、両者の戦争としての質は全く異なる。西部戦線におけるドイツと英仏との戦争は、あくまで国際政治競争の延長線上にあるものであり、戦時とはいえ、法に則った人間対人間の駆け引きの話しであった。もちろん、戦争である限り、その非道さ、悲惨さが軽減されるものでは全くないが。

 ここで伝えたいのは、戦争という非道で悲惨な行為の中でも、東部戦線、すなわち独ソ戦は、西とは比べ物にならないほど狂気的で凄惨であったという点である。東部戦線における戦争とは、国際政治的な駆け引きではなく、相手民族の滅亡を企図したものであった。そして、ドイツにとって深刻だったのは、他ならぬドイツ民族の側から、ロシア民族を相手にそれを仕掛けたという事実である。

 ドイツは、この戦争の前半において、ソ連本国の奥深くまで進軍し、その地に住んでいた人々を人とみなさず、女子供も構わず殺しまくった。そのソ連軍が今、積年の復讐の念を果たさんとしてドイツ本国内に深く攻め込んできていて、背後には、英米仏の西側連合国が、自分たちのほんの後ろまで迫りつつある。

 帝国の滅亡はもはや疑う余地もない。同じ占領されるにしても、ソ連による占領と英米仏による占領が異なるであろうことは、ロシア人たちの祖国で何をやったかを知っているドイツ人たち自身が一番よくわかっていた。ドイツ人たちは、あの冷たい大地で自らが行った蛮行を思い返し、これから自らに降りかかる業を思い震撼した。

 そのようにして、この戦争は、フィナーレであるベルリン市街戦に突入していくのである。

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 ゼーロウ高地でドイツ第9軍を打破し、西へと進撃した赤軍によって、ベルリンは包囲されつつある。そこには、数十万の子供を含む300万の市民が住んでいた。

 包囲する赤軍の数は100万。これに対し、防衛側が用意した兵力は10万であるが、その多くは民間人の国民擲弾兵で、正規兵は一部に過ぎなかった。配備された戦車や装甲車の数もご極わずかで、銃すら全員に行きわたらない状況であった。防衛軍は、剥がした道路の敷石や瓦礫、鉄骨等を使って市街のあちこちにバリケードを築き、来るべき赤軍の進軍に備えた。

 赤軍によるベルリン市街への本格的な強襲が開始されたのは4月26日の朝である。ゼーロウ高地での戦い同様、ソ連軍は、進軍前の大砲撃を行った。しかし、今回の砲撃先は民間人が住む市街地である。市街の建物は瓦礫となって崩れ落ち、辺りには黒煙と埃が立ち込め、路上にはいくつもの大きな砲弾跡が出来た。通りでは、食べ物や水を求めて女性たちが行列を作っていたが、そこにも砲弾が直撃し、バラバラになった死体があたり一面に吹き飛ばされ、建物の壁にたたきつけられた。

 砲撃の後は、戦車と狙撃兵による進軍である。赤軍は、戦車や重砲から進軍先の建物に砲弾を撃ち込み、防衛側の兵力に打撃を加えた上で、狙撃兵を随伴させた戦車が前進し、物陰にいる敵兵を見つければ狙撃するという進軍方式で、徐々に包囲網を狭めていった。砲撃対象の建物には多数の民間人が住んでいる可能性があったが、そのようなことに躊躇している余裕はなかった。

 圧倒的な兵力でベルリン市街を進軍する赤軍であったが、その作戦遂行は決して楽なものではなく、むしろ進軍は困難を極め、膨大な数の死傷者を出した。

 ドイツ軍は既に軍団の形式をとっておらず、ゲリラ化してベルリン街区のあちこちのビルに分散して身を隠している。赤軍戦車が、そうしたビルに砲撃を加えながら進軍するのだが、全てのドイツ兵を掃討するのは難しく、至近距離の廃墟や瓦礫の山から突如攻撃してくるドイツ兵により、実に多くの赤軍兵が命を落とした。

 特に赤軍を悩ませたのは、ナチスが開発した成型炸薬弾“パンツァーファウスト”の存在である。どんぶりを二つ合わせたような砲塔に、細長い1m程度の鉄パイプをついただけの単純な構造で、戦闘員は、これを肩に担ぎ、通りがかる戦車に向けて発射する。どんぶり状の砲弾は、戦車の側面に当たって前半分がぺしゃんこにつぶれるが、その圧力が砲弾内の1点に集約され、針のような熱線となって戦車の装甲を貫通し、操縦席を熱地獄と変えるという恐ろしい代物である。

 パンツァーファウストを撃ち込まれた戦車は、外観上は無傷に見えたが、弾が当たった個所に指も通らないほどの小さな穴が開いており、操縦席内の戦車兵はみな黒焦げになって死んでいた。このパンツァーファウストは、安価に、かつ大量に作ることが出来、発射時の反動も少ないため、老人や子供、女性でも使うことが出来たが、ベルリン市街戦でもそのように運用され、多数の赤軍戦車が撃破された。

 戦車に随伴する赤軍狙撃兵も相当数が命を落とした。戦車は、広大な土地での距離を置いた相手との交戦には威力を発揮するが、至近距離からの攻撃に対し機動的に対処することは構造上難しく、歩兵を随伴させてこの欠点を補う必要がある。この戦法には、歩兵を徒歩で随伴させると進軍の速度が落ちるという欠点があるが、こうした問題を解消するために、赤軍は、“タンクデサント”という戦法を常用した。

 タンクデサントは、日本語で“戦車跨乗(こじょう)”と訳され、文字通り、走行する戦車に歩兵を跨らせて移動するという戦法である。機動力を損なわずに歩兵を随伴でき、至近距離からの迎撃に迅速に対処出来るという大きな利点がある一方で、何の遮蔽物もない戦車の上に跨った歩兵たちは狙撃の格好の的となり、生命の危険が極めて高いという重大な欠点もあった。

 ソ連軍は、それでもタンクデサントを多用した。戦車に跨った歩兵が狙撃されることは必然で、タンクデサントの戦闘員は2~3週間のうちに命を落としたという。死が必然の消耗品といってよい。赤軍は、主に“懲罰大隊”の兵員をタンクデサント戦闘員に充てた。懲罰大隊は、脱走兵、敵軍の捕虜になった者、強制収容所に送られていた者によって編成された部隊である。懲罰大隊は、これまでにも、地雷撤去や敵陣への突撃等の死傷率が非常に高い任務で多用されてきたが、この大戦争勝利の最後の一手となるベルリン市街戦においても、敵陣地に撃ち込まれる無数の砲弾同様、戦争資源としての意義を大いに発揮したのである。

 狭い市街への性急な進軍は、誤射による友軍殺傷も多発させた。後方からの重砲爆撃は、ベルリン市街に入り乱れて進軍した赤軍部隊を誤射する恐れがあった。発射する側は細心の注意をもって射撃を行ったが、前線の部隊の動きを全て把握出来ているわけもなく、多数の部隊が自軍の砲弾によって殺傷された。それでも砲撃を止めることは許されなかった。そうした消耗は全て、スターリンにとっては、対ナチスのこの大戦争に勝利し、戦後社会で英米仏に対等な立場を確保するための“コスト”として、既に織り込み済みの要素だったのかもしれない。

 そのように、攻める赤軍も血みどろであったが、守るドイツ側がそれ以上に悲惨であったことに変わりはない。

 瓦礫の山や建物の陰からパンツァーファウストを発射していたものの多くは、国民擲弾兵に所属する老人たちであった。弾の発射は必然的に自分の潜んでいる場所を敵軍に知らしめることになり、すぐに報復の銃弾を浴び、殺傷された。ほぼ、特攻に近い戦闘行為といってよい。

 砲弾の雨は絶えることなく降り注ぎ、進軍する赤軍兵による狙撃も相まって、多数の兵士や民間人が死傷し、ベルリン中の路上に溢れた。もはやドイツには、負傷者たちを安全な場所に回収する余裕も満足な医薬品も麻酔薬もなく、四肢がもげ、はらわたが飛び出した負傷者たちは、そのまま路上に放置された。

 生き残った市民と、自力で動ける負傷兵は地下室に逃げ込んだ。地下室では、よどんだ空気の中で、大けがを負った負傷兵と煤と誇りにまみれた市民がひしめき合い、血と膿の匂いが漂い、負傷者のうめき声と絶叫が響いて、地上同様、地獄絵のような情景となっていた。ドイツ民族にとっての“この世の終わり”は、もうすぐそこまで迫っていた。

 このような、民間人を巻き込んだ悲惨な地上戦を、我々日本人は経験していない・・・か?そうではないというところに、我が国の歴史認識の重要なテーマがあるように思う。このベルリン市街戦とほぼ同じ1945年3月から6月にかけての沖縄本土戦では、ベルリンに勝るとも劣らない悲劇が展開され、10万人近い沖縄県民が命を落としている。我々は、その史実を、どれほど“生”の現実として認識しているだろうか。

 我々はまず、“知らない”という事実と向き合わなければならない。自分が、独ソ戦のルポを書き続けている理由も、そこにあるのである。

2020年4~6月

*著作権及び文責は「Koji Sakamoto’s Blog」に帰属します。

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坂本 航司

神戸出身・パリ在住。

スペイン、メキシコ、オランダ、ロシアの各国を経て、現在はフランスに駐在。ロシア駐在中に単身になったことをきっかけに、元々好きだった写真撮影を再開し、МФК PHOTOS に加入。 そこで出会ったオールドレンズの世界にはまり、ソ連、東独系のレンズを好んで使っている。

歴史や文章を書くことも好きで、独ソ戦に興味を持ち、ロシア駐在をきっかけに、個人的なルポ を書いている。

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