追跡 独ソ戦 第五編「スターリングラード攻防戦」

 最初にその映画のシーンを見たのは、メキシコのカンクンでだったから、もう10年ほど前のことになる。時刻は夕方で、当時まだ全くの幼児だった子供達をプールからホテルの部屋に連れて帰って、風呂にでも入れようとしている時だった。何気なく付けたテレビに、戦争映画が映っていた。
 

 季節は冬で、丈の長い外套を着た屈強な体躯の若い兵隊たちが、鉄道貨車を降りて岸壁から艀(はしけ)に乗りこんでいった。艀が兵隊で一杯になり、出港しようとしたところに敵の戦闘機が急降下で機銃掃射を仕掛けてきた。艀の幌越しに銃弾が雨のように降り注ぎ、血しぶきが上がって艀の中は血みどろの光景になった。パニックになった兵隊たちが川に飛び込んで逃げようとすると、上官がそれを制しようとし、それでも飛び込むことを止めない兵士たちを、上官が拳銃で撃ちまくるという凄まじい光景が映し出されていた。
 

 自分は、暫く唖然としてそのシーンに釘付けになっていた。妻から、「子供たちに刺激が強すぎるから消して。」といわれ、ようやく我に返って、そのテレビを消した。
 

 二度目に、たまたま付けたテレビで偶然同じシーンを見たのは、モスクワに着任してすぐの頃だった。まだ荷物が届かないアパートにとりあえず入居した夜、日本語放送が見られるチャンネルもセット出来ていなかったので、適当にローカル番組に合わせたら、あのシーンが放映されていた。
 

 その映画の名は“Enemy at the gates”。 邦題は、「スターリングラード」である。
 

 ヴォルガ河畔にある、かつてスターリンの名を冠したこの街は、今はヴォルゴグラードと名前を変えている。1942年の秋から冬にかけて、この地で、独ソ戦最大の市街戦があった。
 

 ロシアは、国家発展のために海への出口を熱望し続けた国であった。ピョートル大帝によってバルト海への出口を確保し、女帝エカテリーナの時代に黒海を得たことによって、欧州列強の一員の座を勝ち取った。
 

 ロシアはまた、毛皮を集めるためにシベリアの原野を東進したことによって、オホーツクの海も得ている。座して冷たい原野に埋もれたくないとあがいたこの国は、気が付けば、欧州からアジアまでの広大な国土を有する世界最大の帝国になっていた。
 

 ヒトラーは、ソ連に侵攻するに当たり、その国土の黒海からバルト海、白海に至る線を制圧しようとし、1941年のバルバロッサ作戦にて、南方軍集団、中央軍集団、北方軍集団の3軍を、東方の平原に展開した。圧倒的な戦力と機動力を有するドイツ軍は、ベラルーシ、ウクライナを制圧した後、ロシア本土にも食い込み、一時はモスクワ近郊にまで迫ったが、ソ連軍の予想外の抵抗と冬将軍の到来に悩まされ、その進軍は一旦とん挫した。
 

 冬が去った1942年春、ドイツ軍は再び大規模な総攻撃を計画する。ブラウ作戦である。ただし今回は、戦力を南方方面に集中し、カフカス地方の油田を確保し、ロシア南方の平原に展開するソ連軍の主力を壊滅させて物流を遮断することにより、ソ連国民と中央政府の戦意を屈してドイツに降伏さしめんとした。
 

 その作戦目的とスターリングラードの絶対奪取命令にどれほど合理的関係があったかは疑問である。しかし、結果としてブラウ作戦最大の激戦地になったのが、このヴォルガ河畔の平和な街であった。
 

 スターリングラードの惨劇は、1942年8月23日のドイツ軍機の爆撃で幕を開ける。日曜日だったその日の朝、突如飛来した1000機以上のドイツ空軍機によって、スターリングラードの市街地は徹底的な爆撃を受ける。同時に、街の東に拡がる平原では、ドイツ機甲師団が街を目指して進軍を開始した。
 

 スターリングラードは、南北に流れるヴォルガ河の西岸に細長く伸びた街である。執拗な爆撃によって完全に廃墟と化した市街地に、ドイツ軍の機甲師団と歩兵部隊が突入し、以後、ドイツ軍とソ連軍の戦いは、壮烈な市街戦となった。

 ヒトラーは、スターリングラードは数日で陥落するだろうと思っていた。彼の判断は或いは間違っていなかったかもしれない。しかし、それはあくまで、相手がもしロシア人でなかったとしたら、という前提のもとに成り立つものであったことを、ドイツ人たちは後で知ることになる。ロシア人たちは、もはや瓦礫の山でしかないスターリングラードの街を捨てなかった。
 

 ヴォルガ河の東岸は、引き続きソ連軍の勢力下にあった。また、包囲網を狭められ、ドイツ軍に市街地まで攻め入られたとはいえ、西岸にもまだソ連軍は残っていた。彼らは、空爆にさらされながらヴォルガ河を渡って物資と兵員を輸送し、廃墟と化した街を砦として、ゲリラ戦で頑強な抵抗を続けた。
 

 ドイツ兵とソ連兵の市街戦は、廃墟と化したビル一つ、その中の部屋一つを白兵戦で奪い合うという凄惨なものとなる。ソ連兵達は、地下道や下水道を通り、いつの間にかドイツ軍の背後に現れた。かつて人が住んでいたスターリングラードの街は、倒壊したビルという要塞が連なる戦場となった。
 

 市街の95%をドイツ軍に制圧され、一日に2,500人もの戦死者を出し続けてもなお、ソ連軍は抵抗したが、ドイツ軍に勝てるという確証はなかった。しかし、ドイツ軍も確実に、そして決定的に消耗していった。そして、一進一退を続けるうちに雪が降り始め、季節はやがて、冬へと変わっていった。
 

 季節が自軍に味方する時期となった11月19日、ソ連軍は、満を持してウラヌス作戦で反撃に出る。東部の平原からヴォルガ河西岸の市街地に向かって展開していたドイツ・枢軸国軍は、ソ連の戦車部隊の南北からの挟撃にあい、両翼が壊滅する。市街でソ連軍と泥沼の戦いを続けていた部隊は、西方の本隊からほぼ孤立した状態となった。
 

 もはやドイツ軍の敗退は明らかであった。それでもヒトラーは、スターリングラードの市街地に取り残されたドイツ軍の降伏をあくまで許さず、補給も得られない零下35度の瓦礫の山の中で、多数のドイツ兵が命を落とした。
 

 2月2日を迎え、ついにスターリングラード市街のドイツ軍が降伏した。この日ドイツ本国では、自国軍の全員戦死が伝えられ、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」が流された。その死は大したことではない。この戦争にいずれ我々は勝つのだからと、ナチスの幹部たちは演説した。
 

 ブラウ作戦におけるドイツ軍のそもそもの目的は、ロシア南部に展開するソ連軍を、野戦で包囲し壊滅させることにあり、より戦術的な目的は、ロシア南部とモスクワの物流を寸断することにあった。スターリングラードの攻略は、そのいずれの目的も叶えるものではなかった。
 

 しかし、このスターリングラードの攻防戦が、独ソ戦の事実上の天王山であった。第三帝国の崩壊は、スターリングラードでのドイツ軍の敗北によって、ほぼ確定的なものになったとも言えるかもしれない。ヒトラーの側近の多くは、ブラウ作戦の発動段階で既に、この作戦に勝算がないことを知っていた。彼らは、都度進言したが、都度却下され、多くの進言者は更迭された。
 

 ロシア人たちは、ナチス軍のモスクワ侵攻を阻止し、レニングラードでも地獄絵のような封鎖戦に頑強に抵抗し続けていたが、対ナチスで決定的な勝利を収めたのは、このスターリングラード戦が初めてだった。「ドイツ軍は無敵ではない。ソ連もドイツ軍を破ることが出来る。その確信を得られたことが、その後の独ソ戦を戦っていくうえで決定的な効果を持った。」と、前線を指揮したジューコフ元帥は言っている。
 

 しかし、この防衛戦にソ連側が投じた人命は、実に兵員48万人、民間人は推定20万人である。スターリンは、民間人の市街からの避難も、当初許さなかった。また、戦闘のあり方に異を唱えたり逃亡したりした罪で自軍により処刑されたソ連将校も、1万3千人に上った。勝利したとはいえ、その被害は極めて甚大だったと言わざるを得ない。
 

 攻めたドイツ側まで入れた犠牲者の数は100万人である。相手を倒すまで戦い続ける事を強いたヒトラーとスターリンの個人対個人の情念の激突であったこのスターリングラードの攻防戦は、人類未曾有の厄災となった第二次世界大戦においても、最も悲惨な市街戦の一つとして、広く世界に知られるところとなった。
 

 広大なるロシアは、母性が支配する大地である。母性は、善悪の区別無く、その子供たちのすべてを受け入れ、慈しみ、その大いなる庇護の下に置く。

 この、ロシアの大地に君臨する偉大なる母性の象徴が、激戦地スターリングラードを見下ろす丘に立つ「母なる祖国像」である。

 スターリングラードは、南北に流れるヴォルガ河の西岸に細長く伸びた街だ。ヴォルガ河を前にした時、この街の背後に横たわる丘陵が、ママエフ・クルガンである。その名は、モンゴルがこの地を席巻した時代に、征服遊牧軍人のママイがここに宿営したことに由来している。

 スターリングラードの攻防戦において、この丘を抑えることは、攻めるドイツ軍にとっても、守るドイツ軍にとっても、必達の軍事的課題であった。廃墟と化した街での市街戦同様、この丘でも両軍の壮絶な争奪戦が繰り広げられた。

 塹壕と鉄条網でソ連軍が防衛するこの丘を、ドイツ軍は一旦制圧するが、数日後にソ連軍に奪還された。ドイツは再び猛攻撃を加え、丘の一部を制圧した。以後両軍は、砲弾と砲弾、肉体と肉体が激突し合うような凄惨な攻防戦を繰り広げる。その光景は、ヴォルゴグラードの市街にあるパノラマ博物館の、360度の壁面に描かれた絵として見ることが出来る。

 降り注ぐ両軍の砲弾で、丘の斜面はその形を変え、土は焦げて、冬になっても雪が積もらず、戦闘が終わった翌年の春になっても草が生えなかった。今でも、この丘の土を少し掘れば、粉砕された無数の人骨と鉄片が出てくるという。

 「母なる祖国像」は、その丘に立っている。その像は、右手に剣を掲げ、左手を大きく広げて、振り向きざまに後に続く子供たちに何かを呼びかけている。

 自分が、彼女に会いに行こうと決めたのは、ある書物の一文を目にしたことがきっかけだった。それは、こういう文章である。

「彼女こそは復讐に燃える女神としてのロシアであり、彼女の権利として、子供たちに信じがたい犠牲を求めてやまない、生気みなぎる自然の力としてのロシアなのだ。」

 オーウェン・マシューズ 「スターリンの子供たち」

 地獄絵のようなスターリングラードの攻防戦を守り抜き、ロシアがドイツ軍を破った最大の要因は、ロシア側が、死が必然以外のなにものでもないという局面に、何万、何十万人の単位で人命を投入し得たからであり、それを指令する将校にも、自らを死地に向かわせる兵員達にも、躊躇の余地がなかったからである。ドイツ軍は、その光景を目の当たりにし、心底戦慄したに違いない。

 スターリンの恐怖政治がそれをさせたという見方もあるかもしれない。しかし、独裁者とはいえ所詮は一個人に過ぎない者に、そこまでの力があるとは自分には思えない。そのスターリンも含めて、ロシア民族全体が、もっと大きなものに動かされていたという見方も、或いは成り立つかもしれない。

 母性の、包み込む愛の一つの極限は、自らの子供たちを呑み殺してしまうことである。ロシアの大地を支配する母性は、ロシア人たちに、圧倒的な庇護と安らぎとともに、絶対に逆らえない宿命も与えているように思える。
 

 当のロシア人たちですら抗えないこの大地の母に対し、外からやってきた者たちが敵うわけがないのは当然なのかもしれない。それは、兵器や国力の優劣の問題では全く無い。外部から来て、この「母なる祖国」に手を出すものは、必ず敗北するという事実を、時の為政者たちは深く認識すべきである。
 

 そして、外来者のその敗北は、ロシアの大地での失敗だけには留まらず、自らを破滅に至らしめるリスクに直結していることを、ナポレオンとヒトラーの先例から見て取るべきである。この国と事を構えるのであれば、あくまで国境の外側までに留めるべきなのだ。
 

 どこまでが彼らの大地で、どこからが外なのかという問題は、別途ある。
 

 平原において、ここまでが自分の土地だと線を引くことは、本質的に難しい。その地で暮らす人々にとっては、ごく自然な発想として、愛国と侵略は地続きで、そこには何の断絶も矛盾もないのではないかという気がする。
 

 或いは、彼らロシア人にとっては何の陰りもない愛国と祖国防衛の一番端っこの部分が、近隣国という立ち位置から見れば恐るべき侵略と映り、事実そうであるということなのかもしれない。

 ママイの丘からは、ヴォルガ河と市街地が見下ろせる。街の建物は全て建て直されたが、遠景として見るスターリングラードの街は、あの戦争があった時とあまり変わらないのではないか。
 

 この丘に立ってヴォルガ河と市街地を見下ろした時、その瞬間まで全く予想しなかったことだが、自分は、自身があたかも爾霊山(にれいさん)、すなわち二〇三高地に立って、旅順の街を見下ろしているような錯覚に襲われた。
 

 ママイの丘は、ドイツの攻撃地図では一〇二高地と記されていた。思えば、二つの丘はあまりにも似ている。いずれ、二〇三高地の丘の上にも、自分は立ってみたいと思う。
 

 自分には、感傷はあっても、感情、すなわち怒りや憤りはあまりない。是非善悪を考える前に、何が起こり、何故それが起こったのかを、自分の足と目でもう少ししっかりと確認してみたいと、引き続き思っている。

 昭和36年というから、1961年のことである。その年の8月、広島市に一通の電報が届いた。差出人はヴォルゴグラード市で、広島と姉妹都市の提携を希望するものであった。

 150万の人口と、ソ連屈指の工業地帯を誇ったかつてのスターリングラードは、瓦礫の山と3万人に減ってしまった市民数から再出発した。

 軍人、民間人併せて100万人の命が奪われる光景を目の当たりにしたこの街は、以後、平和の街として生きていくことを決意し、同じような歴史と意思を持つ他国の街と姉妹都市提携を結ぶことをその方針として、その相手の一つに広島を選んだ。折しも1961年は、この街が、スターリングラードと名乗るのをやめた年でもあった。

 米ソ冷戦時代であった当初、東と西の二つの世界を跨いで手をつなぐことは容易ではなかったと思う。この話しが始まった翌年の1962年には、キューバ危機が起こっている。

 広島の親善使節団がヴォルゴグラードを訪問し、両市の市長により協定書へのサインがなされたのが、話しが始まってから7年後の1968年。それが広島市議会で承認されるまでには、さらに4年の月日を要している。当時この話しを進めた両市の事務局の人々は、様々な反対や抵抗に遭いながら、何とかそれを成し遂げようと懸命な努力したのだろう。

 以後、ソ連時代、ソ連崩壊後を通じ、様々な平和交流が両市の間で続いている。ヴォルゴグラードの街には、ヒロシマの名を冠した通りがあり、博物館には、広島から贈られた“平和の鐘”がある。2012年には、提携40周年が祝われ、11月には、ヴォルゴグラード市長を迎えた広島市で“ヴォルゴグラードの日”の記念式典が開催されている。

 都市は、軍隊を持たない。戦争は、都市でも民衆でもなく、国家がもたらしたものだった。しかし、その国家を戦争の執行に至らしめたのは、やはり民衆自身だったのではないか。国家も、独裁者でさえも、民衆の情念の暴走に、後から付いてきただけなのかもしれない。その結果として、沢山の民衆が命を落とした。

 平和を希求することにおいても、まず最初に来るのは、民衆の気持ちなのかもしれない。国家は、国益という重いものを背負っていて、本来的には、自らの意思で動くことはあまり出来ない。外交にせよ内政にせよ、国家が執行者として行政上の形にするもの全ては、とどのつまりは民意そのものなのではないか。

 原爆慰霊祭に参列するヒロシマの人々が、生の感情としてアメリカを憎んでいることは、もはや殆どないと思う。あの経験に伴う様々な感情は、そこに至った過ちの連鎖を深く見つめ、二度とそれを繰り返さないためにはどうしたらよいのかという思いに既に昇華され、主語は「わたしたち人類」になっているのではないだろうか。ヴォルゴグラードについても、それは同様であろう。

 悲しみや憎しみという感情は、それを乗り越え、真実と向き合うことによって、混じり気のないものに昇華させることもできるが、自己都合主義や無関心、無責任によって、黒々とした負の情念に変質することもある。負の情念は、新たなる負の情念を呼び起こし、武力衝突という、行きつくところまで行きついてしまう。

 世界大戦の後70年の時が流れ、その時代を生きて、あんなことはもう二度とご免だと、生身をもって思っている人々がこの世からいなくなろうとしている今、我々人類の感情は、どちらの方向に向かって動いているだろうか。

 もし世界のどこかで負の情念が渦巻いているのだとすれば、その流れに同調してはいけない。その負の連鎖を断ち切って、あくまで、空へ向かって手を掲げ続けるべきである。(2014年5月)

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坂本 航司

神戸出身・パリ在住。

スペイン、メキシコ、オランダ、ロシアの各国を経て、現在はフランスに駐在。ロシア駐在中に単身になったことをきっかけに、元々好きだった写真撮影を再開し、МФК PHOTOS に加入。 そこで出会ったオールドレンズの世界にはまり、ソ連、東独系のレンズを好んで使っている。

歴史や文章を書くことも好きで、独ソ戦に興味を持ち、ロシア駐在をきっかけに、個人的なルポ を書いている。

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