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追跡 独ソ戦 第四編「惨勝のレニングラード」

 ロシアには2つの都がある。一つはモスクワ。土着のスラブ・ロシアの中心地にして、ユーラシアの広大な中央集権国家の首府であり、政治と権力そのものとも言える無骨な街である。どこかに、アジアを席巻した遊牧民の荒々しい遺伝子を感じさせる。

 二つ目の都はサンクトペテルブルグ。かつてネヴァ河の河口の湿った沼沢地に過ぎなかったこの地に、近代ロシア開明の名君ピョートル大帝が、ヨーロッパ文明の窓口としてその街を造った。以後、帝政ロシアが崩壊するまでの215年に渡り、サンクトは、ロシアの首都であり、芸術と文化の中心地であった。ドストエフスキーも、プーシキンも、チャイコフスキーも、皆、この街で学んだ。そのことは、この地に住む人々の誇りであり、この街のもっとも根本的なアイデンティティであった。共産革命によって、この街がレニングラードと呼ばれるようになってからも、それは変わらなかった。

 この街は、レニングラードと呼ばれた時代に、悲惨な戦争を経験している。

 独ソ開戦初年度であった1941年の夏、ナチス・ドイツ軍は、北方、中央、南方の3軍団に別れて東への進撃を続けており、南方軍集団は既にキエフを陥落させ、中央軍集団は、首都モスクワを脅かしつつあった。北方軍集団は、ロシア第二の都市であるこのレニングラードを陥とし、バルト海経由での軍事物資搬入を可能にせしめるという任務を追っていた。

 レニングラードは、KV重戦車を製造するキーロフ工場を中心とした一大工業地でもあり、その沖に浮かぶクロンシュタット島はソ連バルチック艦隊の母港であったため、ナチスドイツがこの街を制圧することの戦略的な意義は、十分すぎるほどにあった。

 ナチスによるソ連侵攻を知ったレニングラード幹部は、市民を総動員して長大な防衛線を構築する。このうちの一つ目の防衛線、所謂スターリン・ラインはナチスにより破られてしまったが、ルガ川沿いに作られた2つ目の防衛線で、敵を暫く足止めさせることに成功した。しかし、8月に入り中央軍集団からの増援を受けた北方軍集団は、このルガ・ラインも突破し、レニングラード陥落へ向け一気に駒を進めた。

 8月末から9月頭にかけて、市の南東部から回り込んだナチス軍によって、モスクワ・レニングラード間の鉄道と幹線道が遮断され、さらにナチス軍ががレニングラード北東部にあるラドガ湖の南岸シュリュッセルブルグにまで達したことによって、レニングラードは外部との交通を完全に遮断された。市の北部は、反ソの立場から枢軸側としてこの戦争に参戦していたフィンランド軍によって制圧され、市の西に面するフィンランド湾も、その先のバルト海でドイツ軍に封鎖されていた。
 

 ナチス軍は、街を包囲する地上砲と空襲でレニングラードを執拗に攻撃した。街中のあちこちに設置されたスピーカーからは、空襲警報が絶えず鳴り続けた。空襲や砲撃が開始されると、ラジオは番組を停止し、メトロノームの音を流した。早いリズムは敵の襲撃、遅いリズムは撤収を意味した。メトロノームは、レニングラードの日常の音になった。

 9月半ば、ナチス・ドイツ軍は最後の攻勢をかける姿勢を見せ、四面楚歌のレニングラードは、陥落寸前の状態にあった。

 しかし、深まっていく秋と、莫大な兵力と広大な領土を失っても一向に降伏する兆しを見せないソ連に対するヒトラーの焦りが、事態の流れを変えた。

 ヒトラーは、元々レニングラードを陥落させてからモスクワを攻めるつもりでいたが、冬が来る前にソ連を降伏に追い込むため、当初の方針を撤回し、レニングラードを攻め落とさないまま、首都モスクワ侵攻に戦力を集中することとした。この命を受け、ナチス・ドイツの包囲軍の一部はモスクワ攻略に転戦させられ、レニングラードは、間一髪のところで陥落を免れることとなった。

 しかし、ナチスは撤退したわけではない。包囲自体はその後も継続された。

 レニングラード包囲を解くため、ソ連赤軍は懸命の攻勢を試みた。しかし、ナチスのモスクワ侵攻が迫る中、非情にも、ソ連側のレニングラード救出軍の多くも、モスクワ戦線への転戦の命を受けることとなった。

 膠着する独ソの兵力の間で、レニングラードは封鎖状態に陥った。防衛線内には40万人とも言われる多数の子供を含む280万人の一般市民、さらに50万人の兵士が取り残されていたが、食料は1か月の備蓄しかなかった。食料、エネルギー共に、外部からの陸路での供給はほぼゼロ。航空機による食料の輸送も、必要量の20%を賄うのがやっとだった。

 封鎖により、飢餓が「兵器」として使われようとしていた。折しも、レニングラードには、冬が訪れつつあった。

 戦争により、レニングラード市民の日常は一変した。市民は、塹壕掘りや、建物や街の貴重な彫刻群を土嚢や合板で囲んで保護する作業に次々と駆り出された。灯火管制が敷かれ、レニングラードの象徴でもある教会の金色の高い塔には、敵の攻撃の標的になることを避けるためカムフラージュ・ネットが張り巡らされた。空襲と地上砲撃も毎日のように続いた。人々は、街の外からナチス軍が打ち込んでくる砲弾が、建物の陰になって当たらない部分を通って市中を移動した。

 封鎖による食糧難も、ひたひたと人々の足元に迫ってきた。

 開戦はしたものの、ナチス軍がまだレニングラードからはるか遠くにあった7月段階での一日の配給は、労働者はパン800グラム、事務員は600グラム、家族は400グラムだった。肉も、ひと月に、それぞれ2,200グラム、1,200グラム、600グラムもらえた。

 レニングラードが閉鎖状態に陥ったのが9月初頭。食料の備蓄は、1か月分しかなかった。さらに、9月8日には、市中最大の食糧庫であるバダーエフ倉庫に爆弾が落ち、大量の小麦と砂糖が焼けてしまった。

 食料の配給は徐々に減っていった。11月後半には、労働者でパン一日250g、それ以外は125gになった。250gといえば、食パン2枚半。125gなら、1枚とひとかけらである。一食ではなく、一日分の供給量がそれだけしかない。

 成人男性の基礎代謝は一日1500キロカロリー。何もしないでもこれだけのエネルギーが必要なのである。非労働者の配給量である125gは、350キロカロリー。必要量の4分の1にも満たない。 ちなみに、左記はあくまで普通のパンの場合である。この時期レニングラードで配給されていたパンには、足りない小麦を補うため、ふすま(麦糠)や、木屑からとったセルロース、かびた穀物の粉、穀物倉庫の床から掃き集めた塵まで混ぜられていた。「それは、あらゆる種類の屑と、ほんの少しの小麦粉を含んでいた。」と、後に市民は回想している。

 そのようなパンに、どれほどのカロリーがあっただろうか。肉の配給などは、もはや期待のしようもなかった。

 人々は、配給券を持って毎日パン屋に並び、もらったパンを首から下げた袋に入れたり、鍵のかかる戸棚にしまったりして、少しずつ大事に食べた。それ以外に口に入るものは、殆ど水ばかりのスープやカーシャ(粥)だった。それでも、貴重な栄養源だった。

 人々は、あまりの空腹のため、横になっていることがやっとであった。それでも、この街を守るため、市民は、塹壕掘りや兵器工場での武器製造という役務を果たす必要があった。絶え間なく鳴る空襲警報の合間を縫って、人々は、力を振り絞って自らの持ち場に通った。

 11月から、餓死者が増え始めた。その月には1万人。翌12月には5万人が餓死した。

 空腹が、容赦なく彼らを傷めつけた。血色が悪くなり、骨と皮だけになった。十代後半の少女が、老婆のような姿になった。

 多くの者が、歩きながら力尽きて道に倒れて死しんだ。家に残った人々も、座ったまま、横たわったまま、疲れて休んでいるような状態で、いつの間にか死んでいった。

 でも、クリスマスには増配もあった。労働者には150g(食パン1枚)、家族には75g(その半分)がプレゼントとして追加で与えられた。パン屋にきてその事実を知った人々は狂喜し、感極まって泣き出す人もいたという。

 1月、状況はいよいよ絶望的となり、半月に渡り労働者以外への食糧の配給が休止された。全くの、ゼロである。1日の餓死者は4千に上り、7000の死者が出る日もあった。

 極度の空腹が、人々を無気力にした。前を歩いている人がドサリと倒れて息絶えても、アパートの階段に住人の死体が横たわっていても、もう驚くこともなく、ただだまって、それを跨いでいくだけとなった。

 居住区も街路も死体で溢れた。生き残った家族が、布でくるんだ死体を橇に乗せて墓場まで歩いていく光景が、この街の日常になった。

“白い地獄”、人々はそう呼んだ。

 街路の死体の多くは、そのまま吹雪に埋もれた。春になると、溶けた雪から出てきた死体が累々と街路に横たわった。

 集められた死体は、市の北部に設けられたピスカリョフ墓地に埋葬された。ダイナマイトによって凍った大地に穴が空けられ、土木工作機で穴の底が平らに馴らされた。何十体もの死体がそこに並べられた。その上に土をかけて台形状に馴らし、死者をそこに葬った年がかかれた墓碑が、一つづつおかれた。誰がどこに眠っているかはわからない。

 今でも、市の北部にあるピスカリョフの墓地に行くと、その光景を目にすることが出来る。世界最大の共同墓地である。50万人を超える市民と兵士が、そこに眠っているという。果てしなく連なる平らな台状の墓所の数に、圧倒される。

 生き残るための道の一つが、その地獄絵のようなレニングラードの街を脱出することだった。しかし、街は、ドイツ軍とフィンランド軍によって、ほぼ完全に包囲されている。

 唯一の可能性が、市の北西部にあるラドガ湖を通って出入りすることだった。市民の脱出と物資搬入の両方で、このルートの構築が急がれた。

 ラドガ湖は大きな湖である。波が酷く、小型船での航行が非常に難しい。ラドガ湖経由での船舶での輸送が始まった9月の段階では、その輸送量は極めて限定的だった。しかし、厳寒期には厚い氷が張り、氷上をトラックが走ることも不可能ではない。

 11月に結氷が始まり、それが十分な厚さに達したことを確認したロシア人たちは、氷上にレニングラードへの物資輸送と、市民の脱出のための長大な物資輸送ルートを築き始めた。片道3車線の大幹線道路が複数本作られた。氷上の随所に中継施設が設けられ、陸上のドイツ制圧地域や空軍機からの攻撃に対抗するため、氷の高射砲陣地や塹壕を備えた防衛戦まで築かれた。

 人々は、その氷上の脱出路を、「命の道」と呼んだ。人々の懸命の努力により、貴重な食料が市内に運び込まれ、帰りの便は、市民の脱出の貴重な足となった。

 しかし、ラドガ湖上のその道は、同時に「死の道」でもあった。昼の氷上を行けば、ドイツ軍機の恰好の標的になった。

 夜の暗闇の中を行けば、随所に出来た砲弾の跡や、薄くなった氷にトラックごと落ち、運転手も脱出者も、ともに帰らぬ人となった。氷が割れたらいつでもトラックから飛び出せるよう、運転手は、半身を乗り出して運転していたという。

 暗闇の中を進むトラックの車列で、不意に前を走るトラックが姿を消し、氷の下にそのトラックの光るヘッドライトが見えた。脱出途上でその光景を目にした当時15歳だった少女は、一瞬で髪の全てが真っ白になったと、後に語っている。前を走る子供たちが乗ったトラックが湖に落ちるのを見た母親もいた。

 氷上を行くのは、主に弱った老人や子供たちであった。移動途上で力尽きて餓死するもの、凍死するものも後を絶たなかった。トラックが窪みや突起物で大きくバウンスすると、しばしば、おくるみにくるまれた赤ん坊が母親の手から投げ出され、氷上に落ちて行った。トラックは止まらなかった。そんなスピードで氷上にたたきつけられれば、どのみち助かる見込みはない。

 一連の話しを聞くにつけ、我々には一つの疑問が大きく頭をもたげてくる。ここまでの惨状にありながら、何故、降伏という選択肢が取られなかったのか。

 しかし、ヒトラーの率いるナチス・ドイツ、スターリンの率いるソ連のいずれからみても、レニングラードには、降伏という選択肢はなかったであろう。

 ヒトラーは、共産主義を憎悪していた。それは、思想的否定というレベルにはもはやなく、血も逆流するような肉体的憎悪であった。自分には、彼が掲げる国家社会主義とレーニンによって提唱された共産主義がどれほど異なるものなのか、まだ良く理解できないが、特筆すべきは、そのヒトラーの憎悪が、多くのドイツ国民から熱狂的な賛同を得ていたということである。これはもはや社会現象であり、科学によって分析されるべきものであるが、その点については、この後の稿で自分なりに理解を試みたいと思う。

 話しが横にそれた。いずれにせよ、ヒトラーは、共産主義を心から憎悪しており、それを根本から殲滅するためにこの戦争を起こしたのである。レニングラードは、その共産主義黎明の地である。また、ヒトラーは、ロシアにとっては西欧の窓であったレニングラードのことを、「長きに渡りアジアの毒液をバルト地域に吐き出してきた悪の温床」とも称している。

 レニングラードは、ヒトラーにとって、それが降伏しようとしまいと、いずれにせよこの世から消し去られるべき存在だった。「更地にせよ」というのが、彼が、侵攻軍に与えた命令だった。

 スターリンもまた、降伏を許さなかった。

 戦略的理由はもちろんある。レニングラードを失えば、バルト海へのアクセスを失い、ドイツ側に与えてしまう物資搬入の便宜は計り知れない。また、ここを失えば、北極海に面するムルマンスク港からロシア中心部へのアクセスにも支障をきたすことになり、この港経由で得ていた英米からの武器支援(所謂レンドリース)も滞ることになる。

 しかし、それよりもっと深刻なのは、ヒトラーの殲滅命令とも表裏をなすものであるが、レニングラードが、同志レーニンが革命の狼煙を上げた聖地であるという点である。レニングラードの陥落は、共産主義の旗を穢すことになる。

 一方で、スターリンには、レニングラードを本質的に嫌っていた節も見られる。彼がまだ権力掌握の途上にあったころ、共産党内の彼の対抗勢力はこの街に拠点を持ち、彼を猜疑心で苦しめた。この街が貴族的でインテリであることも、スターリンに嫌われた理由かもしれない。彼のこうした感情がなければ、或いはレニングラードの悲劇はここまで酷くならなかったかもしれない。

 そのような為政者たちの意向により、レニングラードの市民の惨状は、目を覆うばかりの状態となった。封鎖された都市。白い地獄。それがどれほど惨いものであっても、今日一日を生き延びるしか道はない。それが、レニングラードに残された唯一の選択肢であった。

 飢えとともに人々を襲ったのは、寒さである。この地方特有のマローズにより、気温はマイナス30度に及んだが、電気、燃料共に、外部からの供給はほぼゼロで、屋内は凍てついた。

 身体を温めるには、何かを燃やして暖を取るしかなかった。家具をはじめとする市内のあらゆる木材が薪にされ火にくべられたが、市民が一冬の寒さを凌ぐには到底足りなかった。

 水道管は凍りつき、建物への水の供給も止った。飲み水は、屋外の雪を鍋で火にかけて溶かすか、運河にあけた穴から汲みだすかしかなかった。何も食べていない市民には、こうした作業すら耐え難いものであった。運河に降りる石段には滑らないように灰を撒き、皆、上り下りする体力がないため、人の鎖をつくって手渡しで水を運んだ。

 水の不足は他にも深刻な問題をもたらした。ろくに食べていなくても、排便はあるのである。バケツで用を足さざるを得なかった。出たものは、その辺りに捨てるしかない。封鎖が最悪の状態にあった1941年末から42年の始めにかけて、アパートの中庭は凍った人糞の山となったという。

 12月から1月にかけて、毎日数千という市民が飢えにより命を落としていったが、極度の寒さと飢えは、生き残っている人々をもおかしくした。
 

 配給権やパンの強奪が横行した。人のパンをその人の手元から強奪し、拳骨の雨を食らいながらも喉に押し込めてしまう。

 人食いすら横行した。人肉が動物のものだと言って闇で売られ、知らないふりをしてそれを買う人々がいた。子供や女の肉がうまいとうわさが広がった。女性や、母親達は、恐怖に怯えながら日々を過ごした。

 隣人のアパート様子がおかしいという通報を受け、当局が踏み込んでみると、そこには人の肉や内臓が入った大鍋が幾つも見つかった。部屋には、酷い匂いが立ち込めていた。路で倒れた死体からは、胸や尻の部分が切り取られ、それをひそかに持ち帰って食べている人々がいた。通りには、バラバラ死体が散乱した。

 ある女性は、外出先から戻って愕然とした。寒さと飢えでおかしくなった老いた母親が、子守を任せていた赤ん坊を煮えたぎったバスタブに漬け込もうとしていた。「なんとまぁ、肥えた子供なんだろう。なんとまぁ。」老いた母親は、うわ言のように何度もそうつぶやいていた。赤ん坊はすんでのところで死を免れたが、その老婆は、2日後に飢えで帰らぬ人となった。

 人が、人として生きていくことが、もはや維持できない状態にあり、多くの人が人道を外れた行為に走った。「ヒトは、飢餓の極限に追い込まれると、退化してヒトでなくなる。」それが、ナチスがレニングラード包囲で実証しようとしていた仮説であった。

 ある少女が、病院へパンを搬送する役目を負い、細い身体で重いカートを押しながら通りを進んでいた。周りに次第に集まってくる飢えたゾンビのような人々に彼女は恐怖を感じた。その時、カートのタイヤが路面電車の線路の窪みに挟まれ、傾いたカートから落ちたパンが路上に散らばった。周りにいた人々の血相が、一瞬にして変わった。

 「パンを持っていかないで!これは病院用なのです!!」

 彼女がそう叫び、周りの人々の動きが一瞬止まった。そして彼らは、痩せ細って殆ど動かない身体で、ゆっくりとパンを拾い集め、カートを線路の溝から押し上げた。パンは一つもなくならなかった。(マイケル・ジョーンズ著「レニングラード封鎖 飢餓と非情の都市1941-44」より)

 ただ生き延びることだけではなく、人間性を保つことが重要だった。多くのアパートでは、住人達が協力し合って生きていた。薪も、水も、食料も、なけなしのものを皆で分け合った。分け合うことによって、自分の取り分が減ることも当然あったろう。しかし、そうやって周りと交際しなかった人の多くは、気力的にも体力的にも持たなかった。

 人は、パンのみにて生くるものに非ず。確かにそこには、その「何か」があった。そしてここは、音楽と芸術の街、レニングラードである。飢餓という兵器に対し、音楽で立ち向かうという壮絶な戦いが、この”白い地獄”で繰り広げられようとしていた。

 戦争、飢餓という極限状態において、都市、そしてそこに住む人々の、音楽や芸術への関わり方はどのような形になるか?レニングラード包囲は、その意味でも、壮大なる“実験”例となった。

 レニングラードは音楽と芸術の都である。そこには、エルミタージュ美術館、マリインスキー劇場をはじめとする数々の文化施設があり、バレエ団、交響楽団、音楽家や作家等、世界屈指の芸術家が数多くこの街で暮らし、一般市民も、日常的にそれらの洗練された音楽や芸術に親しんでいた。

 それらの芸術は、ソ連共産党本部にとっても、プロパガンダという観点で重要な財産だった。ナチスが進軍し、レニングラードが陥落の危機に瀕しつつあった時、党本部は、市内の主要軍事工場設備とともに、エルミタージュの所蔵美術品や、主要な劇場所属の交響楽団、バレエ団、音楽院等を、ウラル山脈の東へ疎開させた。その行先は、遠くタシケント(現ウズベキスタン)や、アルマティ(現カザフスタン)にまで及んでいる。

 もっとも、個々のメンバーに対する指令は必ずしも絶対ではなかったようで、自らこの街に留まって戦うことを選択した音楽家や芸術家も数多くいた。レニングラードは彼らにとって、他には代えがたい故郷であり、この土地においてこそ、音楽活動や芸術活動をする意味があった。生粋のレニングラードっ子の作曲家、ショスタコービッチも、そうした人々の一人だった。

 ドミトリー・ショスタコービッチ。1906年サンクトペテルブルグ生まれ。彼が生まれた当初、この街はロシア帝国の首都だった。街がレニングラードに名前を変えてからも、ショスタコービッチはこの街で音楽の勉強と作曲活動を続け、戦争が始まる前には、既に国際的にも有名な作曲家となっていた。

 ショスタコービッチは、開戦後の早い段階で既に、家族とともにタシケントに疎開するよう、当局から打診を受けていた。彼はそれを断り、他の市民とともにレニングラードで戦うことを決意する。開戦の1年前に正規軍の徴兵年齢を終えていたにもかかわらず、戦場で戦うことを望んだ彼は、義勇軍への入隊を志願した。もっとも、この願いはかなえられず、当局から代替案として示された音楽院消防隊の配属となったのだが。

 それでも、戦う音楽家ショスタコービッチの姿は共産党本部の恰好のプロパガンダの材料となり、消火活動を行う彼の写真が世界中の新聞に掲載された。

 開戦後もショスタコービッチは作曲活動を続けた。当時ラジオでは、戦う兵士や銃後を守る市民を鼓舞する楽曲を連日のように放送しており、作曲家や作詞家には、それらの小品群を提供することが求められていた。

 そうした作品制作に携わる中、ショスタコービッチは、故郷のレニングラードに対する思いと、それを破壊するナチス軍に対する憤り、そしてその蛮行には決して屈しないという市民の精神を、もっと大きなスケールで表現したいと思うようになった。

 開戦からほぼ1か月が経とうとしていた7月19日、ショスタコービッチは、そうした思いを込めた交響曲第七番、“レニングラード”の作曲に着手した。

 ナチス・ドイツ軍は、レニングラードの包囲網をひたひたと狭め、9月8日のシュリュッセリブルグ占領によって、封鎖の輪が完全に閉じられた。市内には、連日のように空襲警報が鳴り響いた。

 ショスタコービッチは、こうした緊迫した状態にある中、空襲の危険もある市内の自宅で第七番の作曲を続けていた。彼は、ラジオや新聞に度々登場し、レニングラードの不屈の精神の象徴として第七番を書き続けていることを語った。

 9月末、第三楽章までを書き上げたその日、ショスタコービッチのもとに当局から電話がかかってきた。家族を連れてモスクワへ移れという。党本部は、愛国・防戦の象徴になりつつあったショスタコービッチと交響曲第七番を、プロパガンダの材料として失うわけにはいかなかったのだろう。

 一方のショスタコービッチも、党本部の意向に背くことがどれほど恐ろしいことかを身を持って体験していた。彼は、スターリンの粛清が猛威を振るっていた頃、その作風が反ソ連的である(要するにスターリンのお気に召さなかった)等の理由で、二度に渡り粛清の危機に直面し、すんでのところでそれを免れている。

 開戦以来、疎開のオファーを何度も断ってきたショスタコービッチだったが、今回は是非の述べようのない指令であると察し、それに従った。

 モスクワでの束の間の滞在の後、彼は、ボリショイ劇場の団員とともに、遥か南のヴォルガ河沿いの街、クイビシェフ(現サマーラ)に移るように指示された。当時、ナチス・ドイツ軍はモスクワをも包囲しつつあり、スターリンは、政府機能の約半分と、主要産業、主要芸術集団を、ヴォルガやウラルの地に疎開させようとしていた。万が一ナチス軍が市内まで突入してきた場合を想定し、モスクワの主要な建物や地下鉄駅には爆薬が仕掛けられた。

 ショスタコーヴィチがクイビシェフへ向かう列車に乗るために訪れたカザン駅は、モスクワを脱出する人々で混乱を極めていた。彼はその喧噪の中で、書きかけの第七番の譜面が入ったトランクを見失ってしまう。そのトランクは、手分けして全車両を探してくれた仲間の助けもあり、2日後に発見された。

 モスクワから1週間の列車の旅を経てたどり着いたクイビシェフで、ショスタコービッチは第七番第四楽章の作曲に着手し、12月27日に全てを書き上げている。

 この年の冬は特に寒く、モスクワもレニングラードも、気温はマイナス30度を下回った。モスクワでは、開戦後初めてソ連軍側がナチス・ドイツ軍を押し戻し、包囲陥落の危機を脱していたが、その戦闘のために防衛軍を引き抜かれてしまったレニングラードでは、4か月目に入った封鎖の中で、餓死者が日に日に増えつつあった。

 レニングラードには2つの交響楽団があった。一つはレニングラードフィル(現サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団)。もう一つはレニングラードのラジオ局、ドム・ラジオ(дом Радио)に所属する楽団、レニングラード放送響だった。

 当時はまだ録音の技術が十分に発達しておらず、ラジオ番組は基本的に生放送であった。

 クラシック等の音楽番組のみならず、ニュース番組や子供番組の合間に挿入されるちょっとした音楽も、全て音楽家たちが生で演奏しなければならなかった。このため、ドム・ラジオには、報道記者や放送エンジニアだけでなく、多数の音楽家も職員として働いていた。総勢500名のうち、レニングラード放送響に所属していた音楽家は約70名である。

 レニングラード放送響の3人の指揮者のうちの1人が、カール・イリイチ・エリアスベルクだった。1907年生まれというから、ショスタコービッチと1歳違いだ。ミンスク(ベラルーシ)生まれのユダヤ系ロシア人であった彼は、15歳の時に父を亡くし、親族を頼ってレニングラード(当時の名称はペトログラード)に移り住み、家族を養うために音楽の勉強の仕上げと演奏活動に励んだ。

 エリアスベルクは、本当は指揮者になりたかった。でも、子供の頃から抜きんでたバイオリニストであった彼は、家族を養うためにはとりあえずバイオリンで活動せねばならず、指揮は独学で学んだ。

 同世代のショスタコービッチとエリアスベルクは、若いころからお互いを知っていた。どころか、2人は親友で、一時期同じピアノ・トリオで活動していた。ショスタコービッチもまた、15歳で父を亡くしている。

 開戦後、芸術団体の多くをレニングラードから疎開させることを党本部が決定した時、レニングラードフィルはタシケントに移るよう指示を受けたが、レニングラード放送響には、そのような沙汰はなかった。楽団は街に留まり、ラジオの番組やコンサートホールで、求められる音楽を演奏しつつ、街の防衛隊に入って、塹壕掘りや空襲時の消火活動を行った。

 封鎖が始まったのが9月の初旬。その後の秋の深まりとともに、市民生活は、飢餓と寒さで徐々に悲惨さを高めていったが、それは、ドム・ラジオや楽団員に対しても同じだった。音楽によって市民を鼓舞しようという試みは随所で見られたが、街は、次第にそれどころではなくなっていった。

 11月7日の革命日には、まだかろうじてコンサートを開催することが出来た。電力も暖房も行き届かないホールで、楽団員たちは分厚いコートを着て、白い息を吐きながら演奏した。数日間続いたコンサートでは、敵国であるはずのドイツの楽曲も演奏された。交響曲第五番「運命」、そして「第九」。

 年末までなんとか演奏活動を行っていた楽団も、食糧危機がいよいよ深刻となった年明け以降は、団員の死亡と活動中止が相次いだ。ドム・ラジオへの電力の供給も止り、ラジオは沈黙した。時々ラジオが復活しても、ニュースのほかには、カツカツカツというメトロノームの音が響くだけで、そこには音楽はなかった。

 毎日死んでいく数千の市民の中に、当然、レニングラード放送響の団員もいた。春になって楽団が再結成を試みた時には既に、解散時の約半分である27名の団員が命を落としていた。

 指揮者エリアスベルクも生命の危機にあった。エリアスベルクは、ワシリエフスキー島のアパートから中心地のドム・ラジオまで、毎日片道2時間かけて歩いて行った。通りでは死体を橇に乗せて運ぶ何人もの人々とすれ違い、寒風吹きすさぶ橋を越えて職場に通い続けた。しかし、飢餓により、まず彼の妻が床から出ることが出来なくなり、気力も体力も尽きたエリアスベルク自身も、1月半ばからドム・ラジオには出てこなくなった。

 どうにか生き延びている団員たちも、餓死と隣り合わせの状態で、あるものは兵士として機関銃を握り、ある者は市内の防衛隊として戦い、音楽とは程遠い生活を送っていた。かつてバイオリンを奏でていた指は機関銃に馴染み、管楽器を吹いていた唇は固くこわばっていった。

 そして季節は流れ、残酷な冬も徐々にその猛威を弱め、レニングラードの街は3月を迎えようとしていた。ロシアの3月は、気温はまだまだ低く、雪も残っているが、日が確実に長く、力強くなっていくのが感じられ、人々は、自分が大自然の息吹の一部であることを改めて実感する。

 しかし、包囲下にあるレニングラードでは、食糧事情は幾分ましになったとはいえ、万事が欠乏した悲惨な状況にあることは基本的に変わっていなかった。なんとか放送を再開したラジオも、カツカツカツと、乾いたメトロノームの音を流し続けているだけだった。

 この状況下で一つの小さな異変が起こる。ひのまどか氏の著書「戦火のシンフォニー―レニングラード封鎖345日目の真実―」に、以下のようなエピソードが紹介されている。

 レニングラードの最高責任者、ジダーノフは、毎日膨大な量の執務に追われていた。食糧難の改善はまだ対応の途上にあったし、春になって雪が解ければ、街中に放置された死体が腐敗し、疫病のパンデミックが起こることが必至であった。痩せ衰えた市民たちを総動員してでも、この状態をなんとか改善しなければならない。

 猛烈なストレスで執務を続けるジダーノフは、ある日、ラジオから聞こえるメトロノームの音に我慢ならなくなり、手元にあった受話器を掴みとって、部下に対しこう怒鳴った。

「この陰鬱な雰囲気をなんとかしろ!何か音楽をやらんか!!」

 ジダーノフにそう叫ばせたのは、音楽の神ミューズだったか、或いは春を喜ぶ母なる大地の神デーメーテルか。いずれにせよ、この一言で、音楽どころではないという風潮は一変し、オーケストラ再開の道が開かれた。

 市の芸術局は、オーケストラの再開へ向け、関係者を至急招集した。エリアスベルクもその対象の一人であったが、衰弱して自ら歩くことが出来ず、橇で運ばれてきた。

 オーケストラを再開するためには、人数を集める必要がある。レニングラード放送響の生き残りの団員は、あちこちの軍や工場に散らばっていたので、彼らを集めることから始めなければならなかった。死んでしまった団員も数多くいたので、元団員以外の音楽家も集めなければならない。ラジオでは、生き残った音楽家はドム・ラジオに出頭するよう、連日アナウンスを流した。

 楽団に復帰した音楽家たちは、まず、楽器と自分たちの身体を元に戻す必要があった。長らく使われなかった管楽器は緑色に錆び、機関銃を握っていた指はなかなかバイオリンに馴染まなかった。

 足りない団員数を補うために、前線にいた軍楽隊の兵士も、特別な許可を得てレニングラード放送響に合流した。戦時下で、前線の兵士が文化事業のために引き抜かれるのは、極めて異例のことであろう。僅かとはいえ、演奏に必要な体力を養うよう、楽団員に強化食が与えらた。エリアスベルクも、なんとか立って指揮が出来るまでに回復した。、街中が、オーケストラの再開を支援していた。

 しかし、エリアスベルクと劇団員たちにとってその道のりは困難を極めた。市民たちの期待は、このレニングラードの地で、ショスタコービッチが作曲したあの交響曲第七番が演奏されることだった。しかし、半年間近くも楽器から離れ、飢餓に蝕まれた身体で、かつ、寄せ集めの楽団員で、四楽章で一時間以上に及ぶ交響曲を演奏しきるのはあまりにも難しすぎる課題だった。しかし、それでもなお、第七番は、包囲下のこのレニングラードでこそ演奏されるべきである。多くの人がそう思っていた。

 交響曲第七番のレニングラード初演実現へ向けた具体的な準備を計画したのは芸術監督バーブシキンだったが、彼の説得を、意外にもエリアスベルクが拒んだ。新作の指揮に当たっては、作曲者の意向を聞くことが何よりも大事なのだとエリアスベルクは言った。それなしに指揮台に立つわけにはいかない。増してや、交響曲第七番は、若き日からの彼の盟友、ショスタコービッチにより作曲されたものだった。その意向を疎かにすることなど、彼には出来なかった。

 バーブシキン達の懸命の説得により、エリアスベルク遂に折れた。そして、一旦それを引き受けたエリアスベルクは、絶対に妥協しないその信念でもって、楽団員たちをその高みに向かって引き上げて行った。譜面を取り寄せる困難も、それをパート譜に仕分ける作業も、その信念で全て乗り越えた。

 そのようにしてレニングラードは、記念すべきその日を迎えようとしていた。

 エリアスベルクが交響曲第七番の演奏準備で決死の奔走を続けていた頃、レニングラード方面軍の新たな司令官として、レオニード・ゴヴォロフという男が就任した。ゴヴォロフは、この時期のソ連の人物としては珍しく、権力に阿ることなく、自らの思うままに生きるアウトローだった。革命後の内戦時には白衛軍に属し、その後赤軍側について、優秀な砲兵士官として各種の戦線で活躍した。

 レニングラード防衛戦の前線兵士たちは、封鎖下の市民同様に飢えていた。また、死が必然以外の何ものでもなく、かつ戦略的意義には大きな疑問の残る戦闘目標に無理な突撃を強いる上層部に対し、激しい不信感を持ち、指揮官達を軽蔑していた。

 ナチス軍に対する攻勢の第一歩として、ゴヴォロフは、まずこの問題を解決することから始める。司令部トップと掛け合い、歩兵突撃による無意味な橋頭堡攻防戦を止めさせ、代わりに砲兵隊の火力を強化させた。砲弾の数は月800発から5000発に増え、軍用飛行隊も二個部隊増強された

 交響曲第七番の演奏に必要な団員が足りず、困っているエリアスベルクを支援したのも、ゴヴォロフだった。彼の許可により、何名もの軍楽隊員が第七番の演奏プロジェクトに参加した。

 開戦後二度目の夏であったこの時期、ヒトラーは、ブラウ作戦という大攻勢によって、今度こそソ連に降伏の白旗をあげさせるつもりでいた。今回の攻勢の主な標的は黒海沿岸に近い南部ロシアで、クリミア半島にある難攻不落の要塞、セバストーポリを陥落させた。勢いに乗ったヒトラーは、この勝利で余裕の出来た兵力を北へ転戦させ、1年近く包囲下に置いていたレニングラードを、一気に殲滅しようと目論んでいた。

 ナチス軍のレニングラード突入は8月9日と予定され、ヒトラーは、陥落させたレニングラード市内のホテルで、この日に戦勝パーティーを開催すると豪語していた。エリアスベルクによって進められていたレニングラード放送響の第七番初演は、このような戦況にあった中、いみじくも8月9日と設定されたのである。結局ナチスは、この時までにレニングラード市内に踏み込める状態に至っていなかったが、市のすぐ手前の前線から、市内への執拗な砲撃を続けていた。

 当日のイベントには数多くの観客が集まり、共産党幹部も同席する。ナチス軍は、レニングラード市内の主要な建物の所在地を正確に把握しており、邪魔さえ入らなければ、演奏会場に対し、包囲陣地からの正確な砲撃を加えることも、戦闘機からの空襲をかけることも出来た。コンサートを成功させるためには、ソ連側は、ナチス軍の攻撃を断固として阻止しなければならない。

 攻めるナチス軍からみれば、会場に砲弾を撃ち込めれば、ソ連政府と国民に与える精神的、政治的ダメージは計り知れなく、ソ連降伏という彼らの目論みへ向けて、大きく駒を進めることが期待される。このコンサートの実現を巡り、独ソ両陣営とも、お互い譲れない決戦となった。

 ソ連軍がナチスを迎撃するために立てた作戦の名は「シクヴァル(スコール)」。レニングラード突入を目論むナチス軍に、砲弾の雨を降らせるのだ。陸軍の砲撃に、クロンシュタットのバルチック艦隊も艦砲射撃で唱和する。

 8月9日、交響曲第七番の公演が始まる数時間前、あたかも序曲のように、前線のソ連赤軍からのナチス軍に対する一斉砲撃が開始され、敵の砲兵陣地を叩いた。ナチス側の砲兵陣地の位置は、農民に化けてスパイ活動を行った赤軍の情報将校たちによって、正確に把握されていた。

 打撃を受けたナチス軍は、公演を妨害できる時間内に戦線を立て直すことはできない。レニングラードが歴史的なモーメントを迎える準備が、ここに整った。

 交響曲第七番公演の当日、会場となったフィラルモニーの前には多くの市民が集まった。会場に入れる人はわずかだったが、人々は、それでもかまわず、熱い興奮を持って会場を取り巻いていた。

 劇場内に集まった人々は、皆、痩せ衰えていた。演奏者も、観客も、この日集まったものの中に、戦争で親族を誰も失っていないという人がどれだけいたであろう。

 公演が間近に迫った頃、会場が一瞬どよめいた。シュクワール作戦の総指揮官、ゴヴォロフ将軍が夫人を伴って会場に現れ、最前列に静かに着席した。

 エリアスベルクが壇上に現れ、きちんとノリのかかった燕尾服で指揮台に立った。「この演奏は、我々の精神、勇気、そして抵抗する覚悟の証しである。」と、彼は挨拶をした。

 彼がオーケストラの方へ向かいタクトを振り上げると、会場の空気がぎゅっと濃縮したような静寂に包まれた。ガリガリに痩せたエリアスベルクの姿は、まるで案山子のようにも見えた。

 コンサートは、ラジオを通じて、会場を取り巻く人々や、家でラジオに耳を傾けていた市民、前線の塹壕にいる兵士たちにも、中継された。皆、ラジオの前にくぎ付けになった。

 エリアスベルクが指揮棒を振り上げ、レニングラードの運命を象徴するような重厚なイントロを皮切りに第七番の演奏が始まった。演奏が始まると、青白く痩せこけた音楽家たちの顔が、見違えるように変わった。
 

 演奏が始まって暫くすると、外から砲撃音が聞こえ、会場のシャンデリアが揺れた。前線では、シュクワール作戦が未だ続いていた。会場で第七番を演奏していた元軍楽隊員たちは、その砲撃音が何を意味するかを知っていた。彼らは、オーケストラのフォルテでその砲撃音に応えようとした。
 

 交響曲第七番は、四楽章に及ぶ壮大な作品である。楽曲が進むにつれ、演奏者たちは力尽きて失神しそうになったが、力を振り絞って演奏を続けた。それを察した聴衆たちは、何時しか全員が立ち上がり、黙って演奏者たちを応援した。ラジオを通してその演奏を聞いていた前線の兵士たちは、自分たちの空の上に、音楽が大きなうねりとなって炸裂していくのを感じた。
 

 演奏が終わり、会場は一瞬静寂に包まれた。パチパチパチと誰かが拍手する音が聞こえ、やがて割れんばかりの拍手が会場に渦巻いた。永遠に鳴り止まないようにすら思われる拍手と喝さいの中、一人の少女が指揮者エリアスベルクの前に進み出て、大きな花束を渡し、こういった。
 

「私の家族がこれをしたのは、生活がいつもと同じように進まなければならないからです。私たちの周囲で何が起きようとも。」
 

 暗く寒く、そして長い冬の地に生きるロシア人たちは知っているのだ。生きていくためには、食べ物や、身体を温める衣服や暖房に加え、いや、それ以上に、心に火を灯し続けるのが不可欠だということを。レニングラードの人々は、その小さな灯によって、あの白い地獄を生き延びたのだ。
 

 その日レニングラードを陥落させるつもりだった前線のドイツ軍の兵士たちも、ラジオを通してこの放送を聞いていた。死の瀬戸際にあるはずのレニングラードの街で交響曲が演奏されていることに、ドイツ人たちは驚愕した。いったい、ロシア人はどれだけ強いのか。
 

 その現場にいた軍人は、後に語っている。
 

「その放送を聞いて、我々にはレニングラードを決して落とせないだろうという実感が萌し始めた。飢餓や、恐怖や、死よりももっと強い何かが、人間でいようとする意志があることを、そこに見出した。」
 

 舞台と観衆が一体となった時の空気は、えも言われるものなのだと、かつてバレエの舞台に立っていた人から聞いたことがある。そのような一体感は、封鎖下のレニングラードの随所で見られた。街中の小さなコンサートで、前線の兵士を慰問するささやかな演芸団の寸劇イベントで、傷つきベットに横たわった兵士達が、自分の声でハミングし踊って見せる少女のバレリーナを見守る野戦病院の病室で・・・・。
 

 封鎖下のレニングラードでは、出演者と観客の間に強力なエネルギーが流れていた。街をあげて人々が一体となったこの日の交響曲第七番の演奏は、その極限であっただろう。これほどまでに濃縮された楽曲の演奏のモーメントは、人類史上、他に例を見ないかもしれない。
 

 その記念すべきモーメントに、当のショスタコービッチはいなかった。可能な限り来てほしいと、レニングラード側から再三の来訪要請があったにも関わらず、である。
 

 交響曲第七番の初演は、その年の3月5日に、クイビシェフでボリショイ劇場管弦楽団によって実現した。同月29日には、首都モスクワでボリショイ劇場管弦楽団とモスクワ放送響合同による一大演奏会があり、7月9日には、遂に、レニングラード自前の楽団、レニングラードフィルによる公演が、ウラル山脈の東のノボシビリスクで開催された。ショスタコービッチは、そのいずれにも、準備段階から関わり、コンサート当日も同席している。
 

 これらの中でも、ノボシビリスクでの公演は、レニングラードフィルの演奏と、同楽団を長らく率いてきた名指揮者ムラヴィンスキーによって執り行われたという点で、交響曲第七番の音楽的完成度という意味では、完璧に近いものだったかもしれない。一方、エリアスベルクとレニングラード放送響によるレニングラード初演は、満身創痍ともいえるような状態で、音楽技術的にはノボシビリスク公演とは比べるべくもなかったであろう。
 

 ショスタコービッチは、レニングラード初演には姿を見せなかった。彼にとっては、ムラヴィンスキーとレニングラードフィルによる第七番こそが同作品の演奏の究極で、つぎはぎだらけのレニングラード初演には興味がなかったということなのだろうか?
 

 自分にはそうは思えない。
 

 あるレニングラード市民はこう言っている。
 

「ここで冬を過ごさなかった人たち、私たちが耐えたものに耐えなかった人たちには、自分の愛する都市の復活を目にしたレニングラード人の喜びは理解できない。」
 

 ショスタコービッチは、あの最も苦しい「白い地獄」の時代を、レニングラードの街や仲間たちとともに過ごさなかった。彼が書いた交響曲第七番という作品は、包囲下のレニングラードの地において、その苦難を共にしている人々のみで演奏されてこそ、その天命が成就される。その全権を、親友エリアスベルクに託したい。ショスタコービッチは、揺れ動く気持ちの底で、そう思っていたのではないか。
 

 1942年8月9日。交響曲第七番とレニングラードの究極のモーメントは、その作品の生みの親であるショスタコービッチ自身の不在によって、そうあるべきだとの彼の意志によって実現した。自分には、そう思えてならない。

 エリアスベルクによる交響曲第七番の演奏の日から、まだ半年近く待たねばならなかったが、レニングラードの封鎖が解かれるその時が、ついに訪れた。

 1943年1月12日の朝、レニングラード郊外に轟音が鳴り響いた。市の南部からラドガ湖まで達する形で封鎖の輪を閉じているナチス支配下のシュルッセリブルグ回廊を、ゴヴォロフ率いるソ連赤軍が突破する「イスクラ(火花)作戦」が始まったのだ。砲撃は2時間以上続いた。

 地上砲による一斉砲撃に続き、赤軍の航空機がナチス軍の陣地を空爆し、兵士たちの前進が始まった。スキー部隊が凍ったラドガ湖を渡ってシュリュッセリブルグの街に突入し市街戦となった。独ソ双方が撃ち合う砲弾で辺りの泥炭が燃え、不気味に光を放った。燃える泥炭は息苦しい煙を放ったが、その中で兵士達は必死に戦った。

 独ソ入り乱れての6日間の攻防の後、遂にナチス軍は南へ向けて退却をはじめ、回廊の西と東から攻め進んだ赤軍が邂逅した。1月18日のことだった。882日に及ぶ封鎖に、ピリオドが打たれた。

 封鎖に風穴が開けられたとはいえ、ナチス軍はまだ、シュリュッセリブルグの南の近郊まで押し戻されたにすぎなかった。砲弾を撃ち込めば届き得る距離である。それでもソ連軍は、この泥炭地に3週間で鉄道を引き、街に食料を運び込んだ。
 

 封鎖の輪は解かれ、危機的な食糧難は去ったが、レニングラード南部には未だナチス軍が居座り、市への砲撃を続けていた。この地が戦争の脅威から完全に解放されるのは、封鎖解除からさらに1年後の1944年1月のことである。

 対戦中、レニングラードの封鎖にナチスドイツがつぎ込んだ兵力は、全体の実に5分の1である。独ソ戦全体を考えると、これだけの兵力を釘付けにさせたという意味でも、レニングラードの抵抗の意義は大きかった。

 900日に近い封鎖を生き抜いて、レニングラードは勝利を収めた。それは、飢餓という兵器の使用に対する、人間の尊厳の偉大なる勝利であった。しかし、その勝利の代償として失われた人命は、計り知れないものだった。公式には64万との発表だったが、これには、自らの弱みを隠そうとする共産党本部の思惑が入っているという見方がある。実際の死者数は、80万とも110万とも言われている。

 第二次大戦時の日本の民間人の死者の総数が、広島、長崎、沖縄等の全てを含めて40万人であったことを考えても、レニングラードでの死者数がいかに凄まじかったかがわかる。餓死者が、その殆どだった。死因の97%に上っていたとの統計もある。一つの都市でこれだけの民間人の命が失われたという史実は、余りに重い。

 戦争とはなんであるか。それは、相手を打ち負かすことを目的とした、究極の暴力行為である。その目的は、相手の精神を挫き、降参させることにある。いうなれば、標的は、相手の「心」なのだ。破壊も、殺戮も、あくまでその手段に過ぎない。

 別の言い方をすれば、攻める側がどれだけの軍事的優位性を持っていても、攻められる側の軍事物資が尽き、食糧が底をついても、もし、そこで抗う人々の精神が未だ挫けず抵抗を続けているのだとすれば、戦争を仕掛けた者の目的は、決して達成されないのである。

 戦争は、長く続けることは出来ない。短期的な戦闘は一部の者を潤すかもしれないが、長期の戦争は誰にとっても消耗以外の何ものでもない。そのようにして、ヒトラーは敗北し、レニングラードは勝利を収めた。

 しかし、それにしても、である。レニングラードの栄光の代償は、100万の市民の命だった。実に、その街の3分の1の人々が、飢餓によって命を落としたのである。

 彼らが眠るピスカリョフの正面入り口の両脇にある建物にはこう記されている。

「封鎖の犠牲者たちへ あなた方の英雄的行為は 将来の世代の胸に 永遠に生きる」

 初夏になると、サンクトペテルブルグの街は観光客で溢れかえる。エルミタージュ美術館や各所の宮殿に見られるロマノフの栄華に酔い、チャイコフスキーやプーシキンの面影に思いをはせる。彼らが、この街がレニングラードと呼ばれた時代に起こった悲劇を目の当たりにすることは殆どない。

 しかし、あの悲惨な戦争の記憶は、今でも何も変わっていない。あれから70年が経った現在でも、レニングラードの悲劇と栄光の記憶は、その同じ場所に、確かに存在しているのである。(2016年3月)

*著作権及び文責は「Koji Sakamoto’s Blog」に帰属します。

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坂本 航司

神戸出身・パリ在住。

スペイン、メキシコ、オランダ、ロシアの各国を経て、現在はフランスに駐在。ロシア駐在中に単身になったことをきっかけに、元々好きだった写真撮影を再開し、МФК PHOTOS に加入。 そこで出会ったオールドレンズの世界にはまり、ソ連、東独系のレンズを好んで使っている。

歴史や文章を書くことも好きで、独ソ戦に興味を持ち、ロシア駐在をきっかけに、個人的なルポ を書いている。

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