追跡 独ソ戦 第三編「ナチス モスクワ侵攻」

1941年6月22日、ナチス・ドイツは、バルバロッサ作戦の名のもと、ソ連への侵攻を開始した。1939年に締結された独ソ不可侵条約を破棄しての宣戦布告であった。

 スターリンは、この開戦を夢にも思っていなかった。いや、絶対に想像したくない悪夢だと思っていたといった方が、より正確かもしれない。

 グルジア(ジョージア)の貧しい靴職人の息子、本名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリとして生まれたスターリンは、ロシア革命を経て、ソ連政府幹部の一人となった。レーニンの死後、権力の頂点に立った彼は、自らの地位を脅かしうる全ての芽を摘むことに執拗なまでの執念を燃やし、悪名高き大粛清で200万もの同胞の命を奪った。

 その大粛清のピークは1937~38年である。殺されたものの多くは、スターリンの脅威になりうる能力の高いもの達だった。その人的損失は当然軍部にも及び、この時期のソ連赤軍は、まとまった兵数の部隊の指揮をとれる人材が壊滅的に不足していた。

 果てしない猜疑心と恐怖に駆られて、ありえない数の同胞を葬り去ったその男が、自らの行いの結果として、対外的な脅威についても怯えなければいけなくなったことは皮肉である。この皮肉は、少女のような可憐さとなってこの時期の彼の言動にも現れることになる。

 当時、ファシズムのドイツとコミュニズムのソ連は、共に国際社会の孤児ともいうべき存在であり、かつ、思想的に両者は全く相いれないものだった。1938年から39年にかけて、独、ソ両国は、もう一方を出し抜いて自分たちを危険視する英仏と手を組むか、いっそ嫌われ者同士の独ソで一旦手を繋ぐかで、外交上の激しい駆け引きを繰り広げた。

 紆余曲折を経て、犬猿の仲だったはずの独ソ両国が独ソ不可侵条約で手を握り、世界を驚かせた。1939年8月のことである。この直後、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、これに抗議した英仏がドイツに宣戦布告する形で第二次世界大戦がはじまった。独ソ不可侵条約には、独ソ両国がポーランドを東西で分割支配する秘密議定も含まれており、ドイツに続いてソ連もポーランドに侵攻し、その東半分を支配した。

 ここまでのいきさつを整理すると以下の通りとなる。

1939年7月まで:
 英仏vs独、英仏vsソ、独vsソ、三つ巴の確執。どことどこが妥協で手を組むかの駆け引き。

1939年8月:
 突然の独ソ不可侵条約発表。独ソによるポーランド分割の密約。

1939年9月:
 ドイツによるポーランド侵攻。英仏の対独戦線布告による第二次世界大戦勃発。ソ連によるポーランド東部の占領。英仏黙認。

 話しを独ソ不可侵条約締結前のスターリンに戻す。

 権謀術数の外交駆け引きを経て、独ソ両国が手を握っていく流れの中で、スターリンのドイツに対する求愛は熱烈であった。

 1939年8月23日、ドイツ代表のリッペンドロップがモスクワを訪れ、ついに独ソ不可侵条約が調印された。その後催された条約締結の祝賀の席で、歓喜したスターリンは何度も乾杯を重ね、「我々はあなたたちを裏切ることはありません。絶対に!」とリッペンドロップに語ったという。

 9月1日にポーランド侵攻を計画していたヒトラーも、計画実行直前のこのタイミングで条約締結が成功したことを当然喜んだ。ただ、彼の場合は、ポーランド侵攻で英仏との対立が必至となる前に、ソ連を無害な存在に出来たことを、冷笑とともに祝したに過ぎない。

 ポーランドを独ソ両国で分割し、ドイツが英仏との戦争に突入した後、独ソの関係にひび割れが生じ始めるのにあまり長い時間はかからなかった。ヒトラーは、1940年12月の段階で既に、後にバルバロッサ作戦と呼ばれるソ連侵攻作戦の立案指示を出している。

 この頃日本は、日独伊三国軍事同盟を結んでおり、米英との対立が深まる中、日ソ中立条約も成立させた。1941年4月のことである。

 スターリンは、日本とも戦争をしたくなかったようである。日ソ中立条約を締結し、シベリア鉄道で日本に帰る松岡洋右(ようすけ)外相を、スターリン自らが駅まで見送りに出た。もうひとつの友好国であるドイツの駐モスクワ大使シェレンベルグもこの場に立ち会っている。

 スターリンは、熱い抱擁で松岡を見送った。さらに、松岡が去った後のホームで、シェレンベルグの肩をたたき、「どんなことがあっても我々はパートナーであり続けなければならない。どんな時でもだ。」と熱く語ったという。

 スターリンは、独ソ不可侵条約の合意事項でソ連側が履行すべきことは誠実に履行し、ドイツ側の不備にはむやみに抗議しないよう、政府関係者に徹底させた。軍部に対しても、ドイツに敵対すると捉えられるような行動は一切取らないよう厳命し、ソ連領空を偵察するドイツ軍機の飛行すら黙認させた。我が国の用語でいえば、“恭順(きょうじゅん)”そのものである。

 その後、ドイツが対ソ戦の準備を進めているとの情報は、外交筋をはじめとする各種のルートからも続々と届けられた。その報告は80回にも上ったという。スターリンは、都度それらの報告を却下し、時には報告者に激怒した。

 1941年6月21日、ナチス・ドイツは、分割ポーランドの中央にある独ソ国境線上への軍の集結を完了させた。その兵員数、実に300万。これだけの数の軍勢が動けば、いかにレーダー等の探査機械が未発達だった当時とはいえ、国境の反対側からもその動向は察知される。事実、ソ連の前線部隊は異常に気づき、本部に報告した。それに対する本部の指示は、「仮にドイツ側の『造反部隊』からの攻撃があっても挑発に乗ってはいけない。」というものであった。

 驚くべきことに、実際にドイツの進軍が始まってからも、この反撃厳禁指令は解除されなかった。ドイツ得意の空と陸からの電撃戦で、ソ連国境は難なく破られ、ソ連の航空部隊は飛び立つこともなく全滅し、開戦早々から制空権をドイツ側に奪われることになった。

 反撃の指令はスターリンから出されなければならなかったが、開戦のニュースを聞かされた彼は、それすらためらった。やっとの思いで反撃指示書にサインしたスターリンは、その後、別荘に1週間引きこもってしまった。

 独ソ戦の緒戦は、ソ連側の総崩れの状態で始まった。スターリンは、或いは正しかったかもしれない。彼の恭順姿勢がドイツの侵攻をより容易にしたことは間違いないが、この時期のソ連赤軍は、装備面でも指揮能力面でも、全くドイツの敵ではなかった。

 1941年の盛夏の頃、ソ連赤軍は敗退に次ぐ敗退を重ね、ナチスの機甲師団は、圧倒的な勢いでロシアの平原を東へと進軍していった。

 ナチスによる対ソ電撃戦が始まったのは6月22日未明。この日は夏至であった。この日を機に、日は、少しづつ、しかし着実に短くなっていく。

 ヒトラーは、4か月でソ連との戦争を終結させる予定であった。もともとの開戦予定は5月。冬の足音が聞こえる10月までには戦争を終え、冬将軍に敗退したナポレオンの轍を踏まずに済む。得意技の電撃戦により、ポーランド、フランスの2か国を、いずれもわずか1か月で攻め落としていたヒトラーにとっては、広大なロシアといえども、4か月あればなんとかなると思っていたのかもしれない。

 問題は、ロシアでの戦争が、何をもって終結するかである。フランス侵攻時のそれは、首都パリが軍事的に包囲されたことによるフランス政府の全面降伏であった。バルバロッサ作戦におけるナチス・ドイツの目的も、ロシアを降伏に追い込むことにあった。

 開戦以来、連戦連勝を続けるドイツ軍は、8月末までには、フィンランド湾のレニングラード近郊からクリミア半島の付け根までを結ぶ線の西部をほぼ制圧した。電撃戦開始時からの2か月で700kmも進軍している。前線となったスモレンスクからモスクワまでの距離はあと400km。レニングラードは包囲され、キエフは既に陥ちた。

 ここまでの戦闘で、ソ連赤軍は、戦死、乃至は捕虜として、開戦時の3分の1以上、170万人に及ぶ兵力を損失し、1万数千輌の戦闘車両を失っていた。

 フランス政府は既に降伏し、西欧大陸は既にナチスの版図にあった。これに加えロシアも降伏すれば、イギリスは欧州内でドイツに抵抗する唯一の勢力となって窮地に立たされ、ドイツの圧倒的優位の中で停戦交渉が始まる。これが、ヒトラーが描いていたシナリオであった。

 しかし、国土の奥深くまで攻め入れられ、兵士、装甲車両の両方で膨大な損失を被ったはずのロシアは、一向に降伏する気配を見せなかった。

 自分たちが戦っている相手は、コミュニズムでもスターリンでもない。ロシア民族という巨大な熊なのだ。この北方の巨大な熊は、どれだけの血を流せば大地に倒れるのか。

 戦術レベルでは連戦連勝を遂げていたにも関わらず、ナチス・ドイツの前線司令部は、自分たちは取り返しのつかない誤りを犯してしまったのではないかという恐怖に、じりじりと苛まれていく。

 独ソ戦開戦時のドイツ軍の目標は、ロシア国内の都市の占拠ではなく、ソ連赤軍の兵力と戦闘車両の殲滅にあった。兵站線が長くなりすぎることの危険性もドイツ参謀本部は考慮済みであり、押し込む前線はスモレンスクまでが限界とした。そのかわり、電撃戦で素早く敵の背後に回り込んで、この線より西に位置する赤軍兵力と戦闘車両の出来るだけ多くを捕獲、または殲滅することによって相手の戦闘続行力を削ぎ、降伏に至らしめるつもりでいた。

 つまり、首都モスクワ侵攻は、当初、明確には想定してなかったということである。

 しかし、ナチス・ドイツが開戦時の侵攻計画をほぼ満点に近い状況で達成したにも関わらず、肝心のソ連降伏という目標は達成されなかった。このような状況で、ドイツとしてどのような判断が取りえただろうか。ものごとには、取り返しのつかない時点というのが、あるのかもしれない。ナチスのソ連に対する挑戦において、複数の選択肢を持ちえたタイミングは、既に過去のものになってしまっていたのであろう。

 もはや、首都モスクワを陥落させ、それによりロシア人に降参の白旗を上げさせるしか、この戦争を終わらせる術はなかった。戦闘能力的には、ドイツにもまだ勝ち目があった。

 1941年10月、ナチス・ドイツによるモスクワ包囲戦、即ちタイフーン作戦の火蓋が切って落とされた。

 ドイツ軍は、兵力180万人、戦車1700輌を3軍に分け、西、北、東の3方からモスクワを包囲する。迎え撃つソ連の兵力は125万人、戦車は720輌で、実戦に耐えうるT-34等の主力戦車はその4分の1に過ぎなかった。このタイフーン作戦突入後も、ソ連赤軍は惨敗を続けた。

 しかし、開戦以来連戦連敗のソ連軍に、ついに幾人かの守護神たちが現れることになる。

 まず最初にやって来たのは泥将軍だった。10月のモスクワは既に晩秋である。天候が不順になり、冷たい雨が降り、時には雪になる。この年も、10月に入ってから冷たい雨が降り続き、モスクワ近郊の平原は泥濘の地となった。泥沼と化したのは幹線道路も同様であった。当時、ロシアの都市間を結ぶ道路の殆どは舗装されていなかった。泥沼に戦車の履帯(=キャタピラ)を取られ、戦力的には前進が可能であるにも関わらず、ドイツ軍は足止めを余儀なくされた。このために、ドイツ軍は、10月の貴重な1か月を無為に過ごすことになった。

 二人目の守護神はゲオルギー・ジューコフである。カルーガ郊外の貧困家庭に生まれた彼は、初等教育を終えてすぐ毛皮職人の元に奉公に出された。その後ジューコフは、第一世界大戦での徴兵をきっかけに軍事の世界に入った後、共産党に加盟し、赤軍指揮官としてその軍事的才能を発揮し出す。スターリンの大粛清も生き延びた。

 彼は、軍人としての課題を必ず達成する男であった。目的を達成するためには、どれだけの人的犠牲が出ようと問題ではない。自軍の最後の一兵が尽きる前に、相手を全滅に追い込む。この、ロシアの大地そのものとも思える戦い方を、現場で具現化させる天才がジューコフであった。

独ソ戦開戦後、ジューコフがまず駆り出されたのは、包囲されつつあったレニングラードの防衛戦構築である。これに一定の目途が立ったと判断したスターリンは、彼をモスクワ戦線に呼び寄せた。迷走を続けたモスクワ守備軍は、ここへきて漸く、然るべき将を得た。

 同志スターリンも、独裁者としての本領を発揮した。彼は、ドイツ軍のモスクワ侵入を覚悟していた。もしそうなっても戦争を継続できるように、モスクワ市内の工業施設と20万を超える労働者を鉄道貨車に乗せてウラル山脈の東に疎開させるという策に打って出た。参謀本部も他所へ移した。

 しかし、この行為は、モスクワ市民の不安を掻き立てた。モスクワ郊外の防衛陣地構築に駆り出されていた市民たちは、ドイツ軍がすぐそこまで迫っているという事実を知っている。大規模な疎開は、ドイツ軍の市街突入を想定したものであり、そうなった時に自分たちはどうなるのだという不安が彼らを襲ったとしても、無理のない話しである。

 市民たちの間に流言が飛び交い、一部はパニックになって鉄道駅に殺到した。スターリンは、密偵網を張り巡らせ、流言をするものがあれば容赦なく連行し、銃殺した。それでも、群集心理がある臨界点を超えてしまえば、市民の間に心理恐慌が起こり、感情の大決壊が発生する。それが兵士にも飛び火し、戦線まで大崩壊するリスクは十分にあった。

 スターリンは、それを阻止する大きな賭けに出た。彼は、ドイツ軍に空襲を受ける危険を押して、11月7日の革命記念日に、例年通り赤の広場で軍事パレードを強行する。壇上に上がった彼は、全人民に訴えかけた。

「同志諸君!今、我らが祖国は未曽有の危機に瀕している。我らがロシアは、過去にも同様の危機に見舞われた。アレクサンドル・ネフスキー(対スウェーデン)!ドミトリー・ドンスコイ(タタール撃退)!ミハイル・クツゾフ(対ナポレオン)!絶体絶命の我が国は、彼らの勇敢な奮闘により危機を脱し、彼らはその偉業とともにロシア民族に記憶された。今、ファシズムの侵略に対する祖国解放の使命を担っているのは我々人民である。自らを鼓舞し、戦い、かの英雄たちと共に歴史に名を残す存在になろうではないか!!」

 この演説に人民は熱狂した。モスクワ市民の不安は、愛国的情熱に一気に昇華され、それはやがて、ロシア全土に広がっていった。この演説をきっかけに、ロシア民族の挙国一致の精神的土台が築かれ、この後、ベルリン陥落に至るまでのソ連軍反撃の、絶大なるパワーの源となる。(ちなみに、その余熱は、現代ロシア人にも感じることが出来る。その事実を、この国に関わりを持とうとする者は、謹んで受け止めるべきである。)

 最大の守護神は、言うまでもなく冬将軍である。まだ10月だった頃、ドイツ軍は、占領したソ連陣地でストーブが既に設置されている(当たり前だ!)のを見て驚嘆したという。4か月でこの戦争を決着させるつもりだったドイツは、冬季の装備を殆ど持っていなかった。

 この年の冬は特に厳しく、11月で既に、マイナス20度を下回る日もあったという。マイナス20度台になると、防寒着を着てもあまり長く表にいることは出来ない。露出した皮膚は寒いというより痛いという感覚で、もっと気温が下がって痛みすら感じなくなると、その部分の壊死が始まる。目、鼻、耳、指、腕・・・・部位を問わない。

 ドイツの兵士は凍え、凍傷で手足の指や脚を失うものが続出した。機械類も、寒さによる冷却水の凍結、配管の破裂等で使えなくなる戦闘車両が後を絶たず、戦闘力の低下は致命的なレベルに達した。

 それでもなお、ドイツ前線部隊に残された道は進軍しかなかった。11月の急激な冷え込みは、兵士たちを苦しめもしたが、泥濘の大地を凍結させ、再び戦車の運行を可能ならしめるという形で、ドイツ軍への恩恵も与えた。

 11月15日、ドイツ軍は最後の力を振り絞ってモスクワ陥落を目指し総攻撃を開始する。

 これだけの不利があるにも関わらず、ドイツ軍は恐るべき働きを見せた。11月30日には、ドイツ軍は、現在のモスクワの外環道MKADの北西部にあるヒムキにまで達した。シェレメチエボ空港の辺りは、ドイツの支配下にあったことになる。

 しかし、ここまでがドイツ軍の限界であった。冬季装備の不足に加え、ついには、武器弾薬等の一般物資の兵站も尽きた。

 1941年12月、厳冬のモスクワで、ついにソ連赤軍による冬季反攻の火蓋が切って落とされた。

 1941年の11月から12月にかけてのモスクワ近郊での独ソ攻防戦に、遥か極東の日本の動向が、大きな影響を及ぼしていた。

 1941年の独ソ戦開戦当初、ソ連の最精鋭部隊は極東に配置されていた。当時のソ連にとっては、確かに、極東の方が軍事的緊張のレベルが高かった。1932年、日本陸軍の関東軍が中心となって満州国が建国され、その北辺の満蒙国境で日ソの緊張が高まった。1938年には、ノモンハンで関東軍とソ連軍が激突し、関東軍1万7千、ソ連軍2万3千の死傷者を出している。

 しかし、1941年6月の独ソ開戦時には、ソ連は、日本と日ソ中立条約を結んでいた。この条約は、おあつらえ向きなことに、独ソの関係がいよいよ怪しくなってきた1941年になって日本の方から申し出があり、同年4月に締結された。そのわずか2か月後の独ソ開戦ということになる。

 対ドイツの防衛戦に全戦力を投入したいスターリンは判断に迷った。欧露にいるソ連赤軍は連戦連敗のありさまで、是が非でも他から増援部隊を持って来たい。しかし、日本を信用して、極東軍を引き上げても大丈夫か。

 独ソの開戦に、日本政府及び軍部首脳陣も動揺した。三国同盟に則ってドイツの側に立ち、極東からソ連を挟撃して、これを機会に北辺の脅威を一掃すべきか。或いは、日ソ中立条約を重んじ、あくまでソ連に対する中立を保つか・・・。

 当時既に、日本は日中戦争の泥沼に陥っており、これに抗議する英米からの経済制裁にあえいでいた。さらに英米は、インドシナ半島から中国の蒋介石勢力への軍事支援物資を供給するいわゆる“援蒋ルート”を確立していたため、これを封じるべく、帝国陸軍は南方への進駐を本格化させつつあった。このまま進めば英米との確執は決定的になり、両国との戦争も覚悟せねばならなくなる。

 政府、軍部中枢部では、ソ連を攻めるべきとする北進論と、南方への進駐を強化すべきとする南進論が拮抗していた。

 6月22日の独ソ開戦を受け、7月2日に開かれた御前会議で決定された内容は、「ソ連攻略は後日チャンスを伺うとして日ソ国境には一定の軍を配備するに留め、ひとまずは英米との対決に備え南進を優先する。」というものであった。

 しかし、独裁者なき日本上層部の足並みは、必ずしも揃っていなかった。ロシアの脅威への対抗が最大のレゾンデートル(raison d’être:存在理由)であった帝国陸軍は、「後日チャンスを伺うための一定の軍備が承認された」事をもって、演習という体裁をとりながら、あわよくばすぐにでもソ連に侵攻するための準備を始めた。秘匿名「関東軍特殊演習」、所謂「関特演」の実行である。

 陸軍は、この計画を隠密裏に進めるため、兵員への召集令状を電報から郵便に替えたり、出征時の縁者による壮行会、万歳三唱を禁止したりした。一方で、膨大な数の兵員の移動により、この年の都市対抗野球、中等学校甲子園大会は中止となった。結果、74万人という膨大な数の兵力が、対ソ戦に備え満州に集められた。

 もはや、秘匿も何もあったものではない。日本の火事場泥棒的な野心は、国際社会にもスターリンにも知られるところとなり、国際社会における日本の立場は悪化の一途にあった。「こんなことをしていては、日本は本当に駄目になる。」軍首脳部をそう叱責したのは、他ならぬ昭和天皇だった。

 8月初旬、再び開かれた我が国の上層部会議で、ソ連側からの侵攻がない限り日本は対ソ中立を守るとの方針が確認され、その内容はソ連政府にも伝えられた。

 しかし、これだけでは、スターリンとして、ソ連赤軍極東部隊の欧露への引き抜きにゴーサインを出すわけにはいかなかった。満州の日本軍が、実際に撤兵するところを見届ける必要がある。

 対ソ中立を外交ルートで明確にした日本だが、軍をどこに配備するかまでは、当然他国に知らせる必要はない。どの国でも当たり前だが、それは、最重要の機密事項として厳格な情報管理がなされる。しかし、この当時の日本政府と軍部の動向は、スターリンに筒抜けであった。そう。スパイ・ゾルゲの働きによってである。

 ゾルゲは、ドイツ人を父に、ロシア人を母に持つハーフであった。父が石油技師として赴任していたバイカル湖岸のバクー(現アゼルバイジャン)で生まれ、青年期の第一次大戦にはドイツ人兵士として従軍し負傷。その後、コミュニストとなり、ロシア共産党本部のスパイとして極東地域での情報収集に従事した。上海滞在時に築いた人脈を生かし、1933年以降は東京を活動の本拠とした。公式な立場は、ドイツの報道機関の特派員であった。

 ゾルゲは、駐日ドイツ大使オットーと懇意になり、中国通として近衛内閣のブレーンも務めた朝日新聞社社員、尾崎秀実をその諜報団に組み入れたことで、東京において、日独双方のトップシークレットを入手しうる立場にいた。

 9月6日、再び開催された御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」の内容は、英米との対決一色に染め抜かれ、ソ連についての言及は、「米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む」の一文に過ぎなかった。この情報を、ゾルゲは、尾崎を通じ入手していた。

 関特演で満州に集められた帝国陸軍の大兵力は、対ソ戦という当初の目的とは全く異なる、南方の戦線に投入されていったのである。

 ゾルゲは、自らの諜報団を使い、日本軍の動向を実に多角的に分析している。ドイツ大使館ルートからは、同盟国ドイツも日本によるソ連挟撃を期待できないと判断していることを聞きだし、日本から出征していく近衛兵たちが南方向けの装備をしている事実も確認した。決定的だったのは、対ソ戦の為に満州に展開していた関東軍が次第にその兵数を減少させ南方へと向かっているという、満鉄調査部にも籍を置いていた尾崎からの情報であった。

 10月4日、ゾルゲは、暗号文をもってソ連に打電した。モスクワ近郊で雨が降り続き、「泥将軍」が登場するのが10月8~9日。その直前のタイミングであり、スターリンとしても、一刻も早く新たな手を打ちたかった時期の話しである。

 「日本帝国陸軍の北進の可能性はない。」

 スターリンは、この報を受けて、ついに極東軍のモスクワ戦線への引き抜きを決断した。この時、極東からモスクワに移動したソ連赤軍の兵力は、一説によれば、40個師団、75万人に上ったという。

 10月、秋が深まるシベリアの原野を、鉄道貨車に乗せられた大量の戦闘車両と兵員が、西へと運ばれていった。そのさなかの10月18日、ゾルゲは、麻布永坂町の自宅に踏み込んだ特高(特別高等警察)によって逮捕された。

 ゾルゲが東京からモスクワに打電した情報は、スターリンとモスクワ市民にとって千金の価値があった。巣鴨での留置を経て、3年後のソ連革命記念日に絞首刑になった彼の亡骸は、今も多磨霊園に眠っている。ロシアの駐日大使は、赴任時にゾルゲの墓を訪れることが、今でも恒例になっているという。

 ソ連極東軍は、11月初旬までにモスクワへの移動を完了した。彼らは、モスクワに到着早々の11月7日の革命記念日に赤の広場でのパレードに参加し、その足でモスクワ郊外の対独最前線に配属されていった。極東軍は、戦闘経験もあり、装備も十分であった。

 1941年11月、大地の凍結により戦車での移動が再び可能になったナチス・ドイツ軍は、モスクワ陥落をめざし最後の進撃を開始した。特に寒かったこの年の冬、モスクワ郊外では、既に1mの雪が積もっていた。ドイツ本国が前線の兵士の為に用意した防寒具は、ロシアの鉄道のゲージ(線路幅)が欧州とは異なるために輸送がうまくいかず、ポーランド・ソ連国境に山積みになっていた。

 兵站が付き、進撃用の貴重な燃料であるガソリンすら燃やして暖を取らざるを得なかったナチス・ドイツ軍と、極東軍の増援も得て反攻の機会を伺うソ連赤軍の激突が、今、正に始まろうとしていた。

 11月後半に至ってなお、ソ連赤軍のモスクワ防御戦力は、とても十分といえるものではなかった。「一歩も引くな。」が、ソ連側の一貫した合言葉だった。それは即ち、どれだけ絶望な状況においても、後退を許さないことを意味した。どれだけ屍を重ねることになっても、である。投じ得る命の数と冷たく広大な大地だけが、ロシアの財産であった。

 絶望的ともいえる戦闘を続けるソ連赤軍であったが、11/28のモスクワ南部での抗戦の中で、ジューコフは、一つの変化を感じ取った。ソ連赤軍との力押しに負けて、ナチス・ドイツ軍がずるずると後退を始めた。それは、以前には決してなかったことであった。

 ドイツ軍は、攻勢限界に達している。

 そう直感したジューコフは、すぐさま全軍による反攻の開始許可をスターリンに申し立てる。11月29日のことであった。スターリンも、これを承認し、ソ連赤軍による反攻準備が進められた。

 これまでの守勢から一気に攻勢に出る。

 ドイツ側は、赤軍がそう覚悟し、ついに彼ら本来の牙をむきつつあることを察知していなかった。

 12月5日、クレムリンまであと一歩の、しかし、ぎりぎりの進軍を続けるドイツ軍の側面に、ソ連赤軍が両翼から襲い掛かった。退路を断たれる形となったドイツ軍は、かつて自分たちが得意とした包囲殲滅戦の餌食に、まさに自分たちがなろうとしている事実を、戦慄とともに理解した。

 ドイツの前線部隊は崩れるように退却を始めた。長引く極寒と兵站不足で極限状態にあったドイツ軍兵士達は、志気を砕かれ、規律を乱して壊走を始めた。

 それでもヒトラーは、前線死守を命じた。一旦は崩れかけたドイツ軍であったが、ドイツ騎士団の末裔である彼らは、中世以来の精神を発揮し、ぎりぎりの線で踏みとどまった。責めるソ連赤軍側も、兵士・指揮官の能力、戦車数の両方で限界に達し、それ以上の押し戻しは出来なかった。

 この、モスクワ作戦末期に展開されたソ連側の反攻で、ナチス・ドイツ軍が押し戻された距離は百数十キロであった。開戦時以来、千キロ超を進軍してきたことを思えば、それはわずかな距離と言えるかもしれない。

 しかし、この後退の意味は重すぎた。

 攻守は逆転した。モスクワは、陥ちなかった。それは即ち、ナチス・ドイツの電撃戦の失敗を意味し、同時に、持久戦への突入を意味した。ロシアを相手に持久戦に陥った場合の結末は、ナポレオンの例を見るまでもなく明らかだった。

 モスクワ攻略戦でのナチス・ドイツ軍の死傷者は30万人(うち死亡・行方不明8万人)である。西部戦線、すなわちフランス侵攻時のそれは5万人であった。冷たいロシアの大地に30万の兵士の血を投じてドイツ人たちが得たものは、果たして何であったのか。

 ソ連が降伏する可能性はもはやゼロだった。このモスクワ攻略失敗以降、3年半に及ぶ血みどろの迷走を続けたドイツ第三帝国は、1945年5月、ヒトラーの自殺とベルリン陥落をもって滅亡した。

 モスクワ攻防戦での勝利は、ロシア人にとっても安い買い物ではなかった。この、戦闘でのソ連赤軍の死傷者は約180万人。うち半分強が、死亡、乃至は行方不明であった。第二次大戦全体を通してであるが、英米兵1人に対して、日本軍の戦死者は7人、ドイツ軍が20人、ソ連軍は、実に85人という、驚くべき統計もある。モスクワ防衛戦は、ソ連赤軍の各地での戦闘の中でも、最も過酷なものであったという。

 ドイツ軍がいよいよモスクワに迫りつつあった10月、大工場と政府機能のモスクワからの疎開を実行したスターリンは、専門の爆破部隊を組織し、モスクワ市内の主要なインフラ、建築物を対象とした爆破準備を遂行した。モスクワ地下鉄駅の構内にも、ダイナマイトが張り巡らされていた。

 もし、ナチス・ドイツ軍が、防衛戦を突破し進軍してくるようなことがあれば、スターリンは、モスクワを、自らの手で灰塵にしたうえで捨てるつもりでいたのである。

 1941年末の厳冬期、モスクワの街は、180万のロシア人の血によって、辛くも壊滅を免れたのであった。

 モスクワ郊外で独ソの劇的な形勢逆転がなされた1941年の冬、地球の裏側でも大きな転換期が訪れつつあった。

 11月26日、千島列島の択捉島、単冠(タムカップ)湾に終結していた多数の軍艦が、次々に抜錨し、南へと進撃していった。旗艦赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴。大日本帝国海軍の空母機動部隊である。

 「吠える40度(Roaring 40s)」という言葉がある。北緯40度の海域は、卓越風という強い風が吹き付け常に海が荒れている。過去10年間、この時期にこの海域を航行した船舶がないことを、帝国海軍は知っていた。

 12月8日、隠密航行を経て北回帰線近くの攻撃目標海域に到達していた我が国の艦隊は、大本営からの暗号電文を受信し、行動を開始した。

 「ニイタカヤマノボレ 一二○八(ヒトフタマルハチ)」

 真珠湾攻撃の開始である。アメリカとの最後の交渉が成立し戦争が回避された場合のために用意された電文「ツクバヤマハレ」は、ついに打電されることはなかった。

 同日、帝国陸軍は、マレー半島のコタバルで奇襲上陸作戦を決行。イギリスとの戦闘の火蓋が切って落とされた。ゾルゲ諜報団が調べた通り、満州にいた陸軍の多くは、南方戦線に投入されていた。

 スターリンの見立ては正しかった。泥沼の日中戦争と、方向性のはっきりしない対ソ関係を抱えたまま、日本は英米に宣戦布告し、太平洋戦争に突入したのである。

 南方の前線には、兵と兵器が必要だった。満州に配備された我が国の兵力は、日ソ中立条約もあり、対ドイツ戦で極東にかまっていられないソ連側の事情もあったため、順次引き抜かれ、南方へ送られていった。

 戦争が進み、日本の戦況がいよいよ危うくなってきた1944年末には、ルソン島へ向け30万の兵力が満州を後にした。さらに、沖縄戦があった1945年春には、本土決戦に備えるための兵力が引き抜かれていった。満州の前線では、兵力の頭数を賄うために、開拓民の日本人男性たちが徴兵された。所謂、“根こそぎ動員”である。かつての「泣く子も黙る関東軍」は、もはや張子の虎であった。

 一方、1945年5月7日にベルリンを陥落させたスターリンは、次なる標的、日本に対する行動を開始する。

 ソ連の対日参戦は、元々は英米両国から乞われてのものだった。既に対日戦でのアメリカ勝利の形勢は明白だったが、執拗に抵抗を続ける日本に、アメリカ側は余程手を焼いていたのだろう。対日参戦でスターリンをその気にさせるために、ソ連の日本進攻用の軍事物資を太平洋側から支援供給し、日露戦争の勝利で日本が得た南樺太と千島を(!)ソ連のものとすることを認める約束すらした。

 ナチスドイツの滅亡を受け、ドイツ軍掃討戦で西ヨーロッパに進出していたソ連赤軍が、ユーラシアの対極にある極東戦線に転属された。その数、実に170万である。満州国の東の国境で、唯一高台からソ連側の領土を見下ろせる位置にある関東軍の虎頭(ことう)要塞からは、鉄道貨車に乗せられ移動していく膨大な数のソ連戦車が目撃されていた。

 日本は、ソ連との戦争を望んでいなかった。

 極東にソ連兵が集結しつつあるとの情報を得てもなお、我が国の首脳陣は、ソ連の対日参戦を想定しておらず、あまつさえ、我が国との中立条約を有するこの国に、英米との和平交渉の仲介を頼もうとすらしていた。

 1945年の7月26日、日本に対する降伏勧告、いわゆるポツダム宣言が発表された。その宣言に名を連ねていたのは、英米中の三国で、そこにソ連の名前はなかった。

 もはや、英米ソ共通の敵、ドイツは滅びた。その戦後処理を話し合ったポツダム会談において、米英とソ連は既に完全な対立状態に陥っていた。会談での論議の中心は戦後ヨーロッパについてであったが、アメリカは、この会談の名を冠した宣言を、対日降伏勧告としてほぼ単独で起草し、英中に追認させる形で、ソ連の連名なしに発表した。かつてスターリンに与えた対日参戦という利権の行使阻止がその主目的である。スターリンは、一刻も早くそのクーポン券を使ってしまう必要があった。

 かかる国際情勢下、日本政府は、ポツダム宣言にソ連の名前がない理由を、ソ連が、日本と英米の和平交渉の仲介をする用意があるためだと理解した。少女のような可憐さという他ない。

 ソ連の満州侵攻が刻々と迫る中、前線の日本軍とそれに指示を出すべき軍首脳部は、ソ連軍を迎え撃つ軍備も、計画も、心の準備すらも出来ていなかった。

 8月9日未明、ソ満国境に集結したソ連赤軍の砲が一斉に火を噴いた。雪崩を打って侵攻してくるソ連軍に、関東軍はなすすべもなかった。

当時満州には、100万人の日本人居留民がいたという。多くの開拓村では、“根こそぎ動員”で男達が出征し、母と子供だけになっていた。押し寄せるソ連兵の恐怖の中、彼女たちは、子供の手を引き、乳呑児を背負って必死で逃げた。そのうち、戦闘に巻き込まれ死亡したもの3万人。逃避の途中で死亡したもの、21万人。

 銃後の守りを開拓村に残した妻に任せ、前線で戦った日本兵もまた悲惨であった。在満州の日本軍100万のうち、戦死者は3万、そして57万人が捕虜になってシベリアに抑留された。このうちの6万人が、故郷の家族の顔を見ることなく、かの地で命を落としている。

 関東軍、帝国陸軍、大本営は、満州の日本国民を守るという責務において、全くの無力であった。果たして、ソ連対日参戦は、我が国首脳部にとって、夢にも思っていなかったことなのか、或いは、想像したくもない悪夢だったか・・・。

 当時まだ有効であったはずの日ソ中立条約をソ連が“一方的”に破棄して満州侵攻に踏み切った時、スターリンが、それを正当化した理由は、以下のようなものであった。

「1941年9月のソ開戦当初、日本陸軍が関東軍特殊演習を行ったことにより、モスクワ救援のための極東からの部隊呼び寄せが妨げられ、ソ連は甚大な損害を被った。これは日本による利敵行為であり、日ソ中立条約の条項に違反する。よってソ連は、日本に宣戦を布告する正当な理由を有する。」

 誠に、洋の東西は繋がっている。そして、その真ん中にロシアがある。その事実は、当時も今も変わっていない

 東西両戦線を抱えたドイツ、南北両戦線の泥沼に嵌まり込んだ日本は、いずれも敗戦した。両国に挟まれ窮地にあったロシアは、ぎりぎりのタイミングでその戦力集中点を東から西に切り替え、最後には圧倒的な勝者となった。果たしてそれは、そういう偶然と幸運の女神が、この時たまたまロシアの側についただけということなのだろうか。

 どれだけ血を流しても大地に倒れることのないロシアという国の恐ろしさについて、一度侵略者として動き出せば、血も涙もない蹂躙を行うロシアという国について、我々は、もう少し深刻に理解するよう努めた方が良いのではないか。

 この国の侵略を、決して許してはならない。そのための備えは、常に怠ってはいけない。一方で、彼らの大地にこちらからみだりに足を踏み入れるようなことも、現に慎むべきである。ロシアの大地に踏み込もうとする者がどのような顛末を辿るかは、ナポレオン、ヒトラー、そして関東軍の例によって、既に明らかである。この稿を書き終えつつ、深い戦慄と畏怖とともに、その思いを新たにしている。(2014年12月)

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坂本 航司

神戸出身・パリ在住。

スペイン、メキシコ、オランダ、ロシアの各国を経て、現在はフランスに駐在。ロシア駐在中に単身になったことをきっかけに、元々好きだった写真撮影を再開し、МФК PHOTOS に加入。 そこで出会ったオールドレンズの世界にはまり、ソ連、東独系のレンズを好んで使っている。

歴史や文章を書くことも好きで、独ソ戦に興味を持ち、ロシア駐在をきっかけに、個人的なルポ を書いている。

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