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追跡 独ソ戦 第一編「カリーニングラード」

 その地に足を踏み入れてみないと理解できないものは多い。歴史は、その最たるものかもしれない。モスクワ駐在というのは、その意味に於いて非常に得がたい経験である。ここにいる間にしか見られないものは、少し無理をしてでも見て回ろうと思う。

 ロシアの地で向き合ってみたいテーマのひとつに、第二次世界大戦におけるドイツとソ連の戦闘、すなわち独ソ戦がある。何故独ソ戦なのかについては、自分はまだ、それを上手く説明することができない。幾つかの街を訪れ、稿を書き進めていく最後には、或いは、何らかの結論を見出せるかもしれない。

 独ソ戦追跡の最初の地として訪れてみようと思ったのが、カリーニングラードである。リトアニアとポーランドの間のバルト海沿岸に位置するこの土地は、1945年のドイツ敗戦までは東プロイセンと呼ばれ、その中心都市ケーニヒスベルクは、歴代プロイセン王の戴冠式も行われた近代ドイツの黎明の地とも言える街であった。現在はロシア領の飛び地となっている。

 ドイツ史は意外に難解である。日本の三百諸侯に似た群雄割拠の神聖ローマ帝国時代から、やがてヒトラーに率いられた第三帝国の時代に至るのだが、この途中に出てくるプロイセン(資料によってはプロシアとも称されている)という国の存在が、自分には非常に理解しにくかった。

 プロイセンと聞いて連想するのは、鉄血宰相ビスマルク、普仏戦争の勝者となった列強陸軍国、といった情報の断片である。いずれにせよ、近代ドイツの中核というイメージが強い。

 一方で、17世紀ごろのヨーロッパの地図では、現在のカリーニングラードのあたりにプロイセン公国という国が書かれているが、同じ土地の地図で時代をさらに遡って見ていくと、その辺りはドイツ騎士団領と記されている。

 普仏戦争のあのプロイセンは、ドイツ本国から見れば辺境ですらないバルト海沿岸に記されたプロイセン公国と同じ系譜のものなのか。Yesだとすれば、その勢力が何故、近代ドイツの中心勢力となったのか。

 今回のカリーニングラード訪問するに当たり検索したキーワードは数十に登ると思う。調べれば調べるほど、芋づる式に疑問がわき、全体の流れを理解するのに非常に苦労したが、なんとか自分が理解したエッセンスは以下の通りである。

 まず、バルト・ドイツ人と呼ばれる人々の存在がある。日本の鎌倉時代にあたる13世紀、ドイツ人は、現在のポーランドからバルト三国に至る沿岸部への東方殖民を積極的に展開した。ダンツィヒ、ケーニヒスベルグ、リガ、タリン等の諸都市が建設され、ハンザ同盟に加盟して発展した。

 上記の経済面での展開と平行して、武力面では、ドイツ騎士団がこの地域での勢力を伸ばした。双方ドイツ出身の勢力でありながら、封建的なドイツ騎士団と自治都市を志向するハンザ諸都市の関係は良好でなく、ハンザ諸都市はむしろポーランド王の庇護に預かることを望んだりもした。また、北方の諸都市は、スウェーデンの勢力下に入った。

 そのような紆余曲折はあったものの、殖民ドイツ人は東方地域に着実に根を張り、現地の諸民族と混血しつつ、言語はドイツ語を基本とするバルト・ドイツ人という一勢力となった。ケーニヒスベルグに設立されたプロイセン公国は、このような経緯で出来たドイツ人国家であった。軍事的にはポーランド王の庇護を受けた。

 1618年、日本で言えば、家康が死んで間もない秀忠の時代、プロイセン公の皇位継承者がいなくなったことを契機に、同国は、ベルリンを本拠とするブランデンブルグ選帝侯を迎え入れ、飛び地ながら両国の同君連合が成立した。当時のドイツは、我が国の江戸時代の幕藩体制に少し似て、ドイツ、オーストリアの各地域に割拠する諸侯を皇帝が従える、神聖ローマ帝国の時代であった。その一諸侯であったブランデンブルグ選帝侯は、神聖ローマ帝国内では引き続き一諸侯に過ぎなかったが、帝国域外であるプロイセンの地においては王を名乗ることを許された。

 その後、ブランデンブルグ・プロイセンは、辺境に片足を残したままドイツ本国内で徐々に領土を拡大し、軍事国家として成長していく。特に、19世紀に入ると、ビスマルクの提唱したドイツナショナリズムと鉄血政策のもと、同国はその勢力を一層強め、ドイツ諸侯郡の中の北の覇者としての地位を確固たるものにした。

 その後、プロイセンは、自らが所属するドイツ連邦の盟主であるオーストリア・ハプスブルグ家と対立し、連邦を脱退する。プロイセンとオーストリアとの対立は、やがて普墺戦争に至り、これにした勝利したプロイセンは、逆にオーストリアをドイツ統一の枠組みから追放する。

 さらに、普仏戦争にも勝利したプロイセンは、ついに、他のドイツ諸侯を従える統一ドイツ皇帝の兼務の座を獲得し、これがドイツ帝国に発展する。軍事国家プロイセンのアイデンティティは、このような経緯を経てドイツ帝国の中に包含され、やがて消滅する。我が国における薩摩藩の存在が、ややこれに近いかもしれない。

 ヨーロッパの新興勢力として躍進したドイツ帝国は、その後、これを警戒する他の欧州列強との確執を高め、第一次大戦の敗戦とドイツ革命によって崩壊する。そして、第一次大戦の戦勝国が強いた苛烈すぎる賠償政策によって、ドイツ民衆は経済的にも精神的にも困窮を極め、その苦しみの中、大地を割るようにしてヒトラーが登場するのである。

 
 第二次大戦前のドイツ版図 右の飛び地が東プロイセンである。第二次大戦前のドイツ版図 右の飛び地が東プロイセンである。

 ヒトラーの戦争は、現在のカリーニングラード州、すなわち、当時の東プロイセンを発火点として始まる。第一次大戦後、ドイツ本土と東プロイセンは、内陸のポーランドが海に出るための廊下、所謂「ポーランド回廊」により分断されてしまった。

 ヒトラーは、この回廊地域の奪回し、ドイツ本国と東プロイセンを地続きにすることを一つの理由としてポーランド侵攻を行うわけであるが、それにはまず、何故ポーランド回廊なるものが設けられたのかを理解せねばならない。

 日本人の歴史観では印象が薄いが、ポーランドは、14世紀から16世紀の黄金時代においては、経済・政治の両面で大いなる覇権を誇った欧州内の列強国であった。貴族による選挙王政を採用する等、後に西欧で一般的になった立憲君主制を先取りした先進国でもあった。

 しかし、当時のヨーロッパは、絶対王政による中央集権国家間のせめぎ合いの時代である。ポーランドは、ロシア、プロイセン、オーストリア等の列強国による選挙王政への干渉を受け、さらには、所謂「ポーランド分割」の憂き目にあって周辺3国に国土を割譲され、1795年に国家自体を消滅させるに至ってしまった。

 それから一世紀を経て起こった第一次世界大戦は、ヨーロッパの人民に多大な人的損害をもたらしただけでなく、国家そのものも著しく疲弊させたため、ロシア、ドイツ、オーストリアの3つの国で革命がおこり、いずれの国でも王が追放され帝政が崩壊した。

 帝政ロシアを倒し政権を握ったソヴィエト共産党政府は、領土・民族の強制的な併合を否定した「平和に関する布告」を宣言し、民族自決の理想を高らかに掲げる。これに対抗したアメリカも、ウィルソン大統領の「十四か条の平和原則」で民族自決尊重を表明した。

 第一次大戦による支配国の崩壊で、ポーランドは、一世紀以上ぶりに独立を取り戻す。それを実践面で手助けしたのはアメリカだった。大戦の戦後調整役を買って出たアメリカは、ヴェルサイユ条約での国境策定において、民族自決の理念を実践せんとする。ポーランドの復活も、十四か条の一項目であった。

 ポーランドの勢力中心は、ワルシャワやクラクフ等の内陸部にあった。当初、欧州の連合各国は、内陸部を中心とした地域を再興ポーランドの国土とするつもりでいたが、アメリカは、ポーランドに海への出口を与えるべきだ主張し、結局、この意見が通り、ポーランド回廊が設置され、ドイツは、本国と東プロイセンに分断された。

 ヴェルサイユ条約は、大戦の再発防止を目的としたものであったが、理想と現実の谷間で多くの点で無理、矛盾を露呈し、後に大戦の再発への大きな濁流を生じせしめた。ポーランド回廊の設置も、その無理の一つに数えられるかもしれない。

 
 敗者復活の魔王として登場したヒトラーは、1939年9月のポーランド侵攻をもって、その復讐の火蓋を切る。

 しかしこの際、東プロイセンは、その地自体がドイツの領土だったこともあり、実際の戦火にはさらされなかった。この地で凄惨な戦いが行われたのは、大戦末期の1945年4月のことである。

 1939年のポーランド侵攻当初、ドイツは、ソ連との間に独ソ不可侵条約を結んでいた。しかし、1941年6月に、ヒトラーはこの条約を一方的に破棄して電撃作戦でソ連への侵攻を開始する。

 初戦に置いてソ連軍を大敗せしめ、首都モスクワを脅かす勢いを見せたナチスドイツであったが、長くなりすぎた兵站線と冬将軍、そして、自らの人民にどれだけの血と命の犠牲を強いてでも徹底抗戦を続けるソ連軍の前に次第に劣性になり、開戦3年半後の1945年の始めには、逆にドイツ領である東プロイセンにまで、ソ連赤軍に攻め入れられる状態になっていた。

 この東プロイセン攻勢に投入されたソ連の兵力は約170万である。170万の兵隊と戦車群が地を覆って移動する光景というものを、自分は到底想像できない。しかも、このソ連の兵隊たちは、かつてナチスドイツに祖国の蹂躙を受けた人々である。その復讐戦はさぞかし凄まじかったに違いない。

 東プロイセン攻勢での最大の戦闘は、ケーニヒスベルグの包囲戦であった。攻める側のソ連軍25万、守るドイツ軍13万の兵力である。 

 かつての王都であったケーニヒスベルグには、19世紀に建設された要塞が街の外環に時計の数字のように配置されていた。このうち、市街南部の第8要塞と北部の第5要塞では、立てこもるドイツ軍と包囲するソ連軍の間で激しい戦闘が行われた。ソ連軍は、執拗な重砲の砲撃で要塞に穴をあけ、その穴から突撃兵をなだれ込ませた。中では、応戦するドイツ兵と突撃するソ連兵の間で壮絶な白兵戦が展開されたという。ケーニヒスベルグ駅でも激しい狙撃戦があり、独ソ共に多数の死者を出した。

 しかし、援軍の期待できないドイツ軍に勝ち目はなく、4月6日からつづいたケーニヒスべルグ総攻撃は、4月9日のドイツ軍降伏をもって終結した。ドイツ軍の死者5万、捕虜8万、ソ連軍の死傷は6万であった。一つの街に10万を超える死傷兵が横たわる光景とは、どのようなものなのだろう。

 この戦闘のわずか10日後の4月16日に、ソ連軍によるベルリン総攻撃が開始され、ヒトラーは4月30日に自殺した。5月9日、ドイツが降伏文書に批准し、独ソ戦はソ連の勝利をもって終わりを遂げる。

 ケーニヒスブルグの戦いでは、独ソ双方の激しい戦闘で、中世から続いた街並みの80%が破壊されてしまった。カリーニングラードという呼び名に変わったその街に立ってみても、ソヴィエト時代の醜悪な建物が立ち並ぶばかりで、往時の面影をしのぶことはできない。大聖堂等、再建された建物も幾つかあるが、どこかテーマパークのようで、かえって薄ら悲しい印象をぬぐえなかった。

 英仏米ソ連合国による敗戦国ドイツに対する裁定は、ポツダム会談にて決定された。この結果、東プロイセンは南北に分断され、南はポーランドに編入され、北はソ連のものとなりカリーニングラードという名称を与えられた。この土地がそもそも誰のものだったのかを歴史的観点から考察すれば、それがドイツ人かポーランド人かという論議はあったとしても、ロシア人のものだという根拠はほぼ見当たらない。

 一方で、ドイツからの宣戦布告を受けたこの戦争に、1,500万とも2,000万ともいわれる人命を投入し、辛くも勝者となったソ連が、その応分の落とし前としてカリーニングラードの領有を要求し、国際社会もそれを容認して今日に至っているというのもまた、紛れもない事実である。(2014年4月)

*著作権及び文責は「Koji Sakamoto’s Blog」に帰属します。

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坂本 航司

神戸出身・パリ在住。

スペイン、メキシコ、オランダ、ロシアの各国を経て、現在はフランスに駐在。ロシア駐在中に単身になったことをきっかけに、元々好きだった写真撮影を再開し、МФК PHOTOS に加入。 そこで出会ったオールドレンズの世界にはまり、ソ連、東独系のレンズを好んで使っている。

歴史や文章を書くことも好きで、独ソ戦に興味を持ち、ロシア駐在をきっかけに、個人的なルポ を書いている。

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